デットーリ騎手の1日全勝達成の立役者フジヤマクレストが死亡(イギリス)[その他]
フランキー・デットーリ(Frankie Dettory)騎手が1996年に、アスコット競馬場で7戦全勝を果たす立役者となったフジヤマクレスト(Fujiyama Crest)は、同騎手の自宅において23歳で死亡した。
ハンデ戦の先行馬フジヤマクレストは、1996年9月の歴史的な1日全勝記録におけるデットーリ騎手の“人生を変える最終レースの騎乗馬”であり、競馬史にその名を刻んだ。
3月30日、デットーリ騎手は次のように述べた。「フジヤマクレストは、囲い放牧場で安らかに息を引き取りました。15年前にセリで購買してから、彼はステッチワースにある我が家で暮らしていました。彼のことは決して忘れません。私の人生を変えました。彼がいなければ、7戦全勝を成し遂げることはできなかったでしょう」。
「彼は家族全員に愛され、子供たちは皆、彼に乗りました。しかし、この3年間は誰も乗ることはありませんでした」。
デットーリ騎手は、フジヤマクレストに4回騎乗し、1995年のチェスターカップの5着以外、すべて優勝した。
フジヤマクレストは、アスコット競馬場において、その日それまで6連勝を果たしていたデットーリ騎手を背に、最終レースのゴードンカーターHを制して競馬界の伝説の一頭となった。
同馬の午前中のオッズは14-1(15倍)であったが、馬場入場のころには、オッズ2-1(3倍)で18頭中一番人気になっていた。その日、デットーリ騎手が勝ち続けていたことから、同騎手の騎乗馬の馬券の売れ行きには拍車がかかっていた。
フジヤマクレストは、9ストーン10ポンド(61.7 kg)のトップハンデを背負っていたが、ノーザンフリート(Nothern Fleet)にクビ差をつけて優勝した。デットーリ騎手が1日全勝を達成するオッズは25091-1(25092倍)であったので、大騒ぎとなった。
デットーリ騎手は、次のように続けた。「フジヤマクレストは、その日の重賞馬ではなく、ハンデ戦に勝って私を有名にしてくれた馬でした。翌日まで、賭事客が馬券でどれくらい勝ったのか知りませんでしたが、今でもなお、人々はその日どれほど彼らの人生が変わったのかを話しかけてきます。その記録を出す前も上手く乗っていたのですが、その日、私は、一躍世界的に有名になりました」。
フジヤマクレストは、その1ヵ月後にサー・マイケル・スタウト(Sir Michael Stoute)調教師の厩舎から売却された。そして、6万5,000ギニー(約1,230万円)で購買され、ニッキー・ヘンダーソン(Nicky Henderson)厩舎に預けられた。
同馬は障害競走に11回出走し、ストラトフォード競馬場において、リチャード・ダンウッディー(Richard Dunwoody)騎手を背に1勝を果たした。そして、ロジャー・カーティス(Roger Curtis)調教師に管理されていた2000年に、フォントウェル競馬場で競走を中止し、それが障害競走の最後の挑戦となった。
その後、平地競走に戻って5回出走し、ジョン・ロウ(John Lowe)騎手を背にノッティンガム競馬場で勝利をあげた。
フジヤマクレストは2000年秋にマルバーンセールに上場される予定であったが、デットーリ騎手が介入して1万2,000ポンド(約216万円)で購買した。スタウト調教師のもとでフジヤマクレストを担当していた厩務員が、同馬がセリに上場されることをデットーリ騎手に知らせていたのである。
By Bruce Jackson
(1ポンド=約180円)
[Racing Post 2015年3月31日「Dettori tributes to magnificent Fujiyama」]