国際化の黎明期
私は昭和32年(1957)に入会したのですが、その年の11月に、中央競馬運営方策要綱が設定され、中央競馬の根幹をなすような方針がまとめられました。その一つとして、国際性の伸張というのがあったのです。中央競馬というのは元々イギリスの競馬を模範にやってきているので、他の公営ギャンブルと横並びで語られるのではなく、それらと差別化するためにも国際関係というのは重要だという認識がありました。
こうした状況を受けて、昭和33年(1958)に、NASRC(北米州競馬委員全国協会)の年次総会に当時のJRA藤原正治常務理事が代表になって、三上泰知調査役(後にJRA理事)が随行して初めて出席しました。それが国際会議への初めての参加だったと思います。もう一つ大事なことなのですが、少し前の昭和30年(1955)には日本にはニューマーケットルールに従った施行規程もあるということで、JRAは英国ジョッキークラブが提唱した『競馬の規則違反者を相互に制裁する協定』への加盟を承認されました。それによって騎手や馬が同じレベルで交流できるという基盤ができたのです。これも先ほどの国際性の伸張を進めるきっかけの一つだったのではないかと思います。
それから昭和33年にはハクチカラ号が初めて米国へ遠征し、翌34年(1959)にワシントンバースデーハンデを優勝するという歴史的快挙を果たしました。
また34年の日本ダービーにはマレーシアの首相をはじめ、競馬開催国の大使や国際オリンピック委員を招待し、当日は極めて国際色豊かなダービーデーとなりました。同じ年の昭和34年には、JRAの当時の酒井忠正理事長がNASRCの総会に出席され、その後、アジアの主要競馬開催国を歴訪されました。特にビルマではラングーンターフクラブから、アジアの競馬関係者の会議を作って、東京で開催したらどうかという提案がなされました。それを受けて、JRAは香港・シンガポール・マレーシア・フィリピン・タイに打診し、了承を得て、提唱国のビルマ・日本を含む7カ国で、昭和35年に第1回ARCが赤坂のホテルニュージャパンで開催されました。
アジア競馬会議
当時のJRAには国際専門の課などはなくて、調査室という現在の総合企画部のような組織の中に、国際調査班が三上調査役をチーフに私を含む5名で構成され、すべての国際業務はここで行われていました。また、日系二世の富田正男さんにも臨時でお手伝いしていただきました。JAIRS 2代目理事長の北原義孝さんもJRAに入会が内定していた3月からアルバイトでお手伝いをお願いしていたと思います。第1回ARC開催に向けての準備期間は約1年くらいでしたが、当時はファックスも無く、電話も不十分ということで、殆ど手紙でのやりとりでした。だから、富田さんにはいろいろと教えていただきましたし、大変お世話になりました。当時の国際調査班では、ARCの他に、国際性伸張という方策のもとに、ダービーの日に各国大使・公使を招待するとか、ニュージーランド製の軽いウッド式発馬機の導入、オーストラリアからはトータリゼータの導入、AJCCをはじめとする国際親善競走の拡大、国際会議や海外研修への役職員の派遣、競走馬の海外遠征などに加えて、競馬資料(内外の競馬に必要な資料を収録して発刊)やKing of Sportsの発行などもやっておりました。このように国際関係は調査室が中心になっておりましたが、その後昭和37年(1962)に総務部の中に調査課ができて、そこが国際関係の仕事をするようになりました。
昭和35年(1960)にはニューヨークジョッキークラブのマーシャル・キャシディ事務総長が来日され、第1回ジョッキークラブカップが贈呈されました。この出来事は、国際化の象徴のひとつとも国際親善のはじまりとも言われています。これを契機として他のいろいろな国ともトロフィーやカップを交換したり、寄贈を受けるといった交換競走に拡大していきました。これに伴い、競馬関係者の来日や、本会役職員の国際競馬機関への派遣などが行われました。当時はこうした様々な形での世界とのつながりというのは、国際化にとって非常に大事でした。
ARCでは、アジアの競馬関係者との国際交流を始めとして、各国がどのように競馬をやっているか、施行規程等を含めて、情報交換を盛んにやりました。第1回ARCには調教師・馬主なども参加されましたが、その中には貴族階級の方々も来日されたのです。
それともう一つ、参加国で政変が起きたら、競馬機関、例えば競馬クラブを、みんなで応援して守ってあげようじゃないかという話も各国との交流の中でありました。ところがビルマは軍事政権の誕生に伴い、ラングーンターフクラブが消滅してしまいました。当時も非常に残念だなという感じがありましたが、ARCの提唱国でもあり、名前もミャンマーと変わりましたが、一刻も早く競馬を再開し、ARCに復帰してもらいたいと考えています。
ARCは第1回以降1年半〜2年に1回、各国が持ち回りで開催しています。第2回からニュージーランド・オーストラリア・インドが参加し、その後トルコや韓国なども参加するようになり、南アフリカや中東諸国の参加に至るわけです。
南アフリカも結構競馬が盛んな国で、騎手招待競走もやっており、日本から2回ほど騎手が参加しています。ちなみに平成9年(1997)のARC南ア大会には日本代表団事務局長として私も参加しました。
ARCは会議の時の参加費はありますが、通常の活動に対しての組織分担金みたいなものはなくて、会議はその主催国が全部負担するという形式です。なお、一時期、恒久事務局を持ったらどうかという話もありましたが、経費をどうするのかということがネックになって、結局できませんでした。
競馬国際交流協会の発足
JAIRSの発足については、これから国際性をさらに伸ばしていくためには、JRAだけではなく、同じ競馬をやっている地方競馬・馬主・調教師・騎手・生産者といったサークル全体として国際化を進めていく必要がある。そのためにはJRAだけでは対応できないことも多々あるだろうという考え方が基本にありました。
そこで、JRAは競馬の統括機関として各国との交流と情報交換、馬の輸出入や検疫の問題などを主として実施し、その他の馬主、厩舎関係者の海外研修・視察・国際会議などのお手伝いはJAIRSで行うということになりました。ARCについても地方を含む競馬サークルの方々との関係はJAIRSが全部をまとめて仕事をしたら良いだろうということになりました。
従ってARCに参加する時は、団長はJRAから任命され、JAIRS理事長は日本代表団事務局長として、ARCの参加準備から、現地に行ってからの各種手配、例えば会議参加者の通訳、会議時の同時通訳の手配、議事録の作成などを担当し、またARCの大会の前後の開催国との連絡調整もJAIRSが代表団事務局として行いました。
ARC研修制度
さらに大きな仕事としては、ARCの開催執務員研修制度をJRAからJAIRSが引き継ぐことになりました。
そもそもは、日本はARCの中では先進国なので、日本で次世代を担う人たちの研修を行って欲しいということが、ARCの会議の中で要請されました。結果からみると、他のアジア諸国では生産から競馬施行まで全体を見ることができないので、まず日本に行って、そのイロハを勉強できるということで、大変歓迎されました。参加国の多くの職員が毎年この研修に参加し、そしてその多くは、それぞれの国の競馬機関で重要な仕事に就いております。このことはARCの中での日本の位置づけを示すものでもあります。
国際交流競走
当初は騎手招待競走という形で始められた国際交流は、招待競走として成功していたワシントンDCインターナショナルに参加することによって日本代表馬の力を知り、このことが招待競走としてのジャパンカップ創設をもたらし、この競走を通じて、日本馬の生産・育成・調教が飛躍的に改善されました。これは国際的にも大きな反響を呼び、香港国際レースとかドバイワールドカップへと広がりました。良い馬を集めて国際レースを施行し、交流を図っていこうという手法は、やはり米国・日本の成功に学んだと言えるんですね。アジアの全体的な底上げということでは本当にこれらの取組みが貢献しています。
競馬に関する情報の発信
また、ARCを通じて交流が深まるとともに、より一層国内外に競馬の情報を伝える必要性を感じました。そこで、JAIRSでは『海外競馬情報』や『Japan Racing Journal』の発行を始めました。当時は人と人との交流はしているが、日本の情報が殆ど伝わっていないと言われていました。第1回ジャパンカップ競走はアジアと北米だけでやったんですが、ヨーロッパは入らなかった。第2回からヨーロッパを呼ぼうじゃないかということで、業務部にJCプロジェクトチームを設けて対応したんですが、その時にヨーロッパに行ったら、日本というのはFar East(極東)といって、向こうの地図では日本が端の方に記載されています。要するに東洋の端に日本があって、そこでどんな競馬をやっているのかよく分からないという意識だったんです。そんなところへ馬を持って行って大丈夫だろうかということも言われました。ニューマーケットとか、フランスのシャンティイに行った時に、調教師を集めて参加を促す会議を行いましたが、残念ながら、情報が全然伝わっていません。統括機関には『King of Sports』は送られていましたが、馬主・調教師など馬の関係者には浸透していなかった。それで、日常的に情報を出すことが必要だということで、英文情報誌『Japan Racing Journal』を出すようになりました。同じように日本の国内で、海外競馬情報は広く競馬サークルの方に配布するようにしました。こうした経緯を経て、現在はホームページにそれらの情報も掲載するようになり、大変喜ばしい事と考えています。
これからの国際交流の在り方
これまで縷々述べてきたように、戦後日本の競馬は昭和29年にJRAになってから、海外との交流を図ることの必要性を痛感し、国際性の伸張という方策のもとに国際化を進めてきました。
今ではジャパンカップを中心にして、レースもどんどん開放され、日本調教馬は凱旋門賞でも勝負できる程になったわけで、こういう流れというのは、当初の予測以上のスピードで進展しているんだろうと思います。
それだけに、JRA及びJAIRSの果たした役割は大きいし、これからももっともっと国際交流は広がって行くと思います。ゴルフでも野球でも、どこのスポーツでもオリンピックや世界選手権を中心にして国際交流は日常的になっています。競馬はもともと国境のないスポーツですから、これまで以上に世界に出て行かなくてはならないと思います。
ARF加盟各国の経済状況とか政治状況によって競馬の置かれる立場は様々ですが、国際競馬界の中で交流、あるいはARC研修制度を通じて、各国の競馬の体制が良くなっているところは本当に多いと思います。例えばシンガポールやマレーシアのクアラルンプール、そして韓国の競馬場もかなり日本の競馬場を参考にしていると思います。
この様に、国際会議というのはお互いに切磋琢磨して発展していくことが目的ですから、ARC会議や研修での交流があちこちに根強く育っているのを見るにつけ、これまで私共の取組みがお役に立っているとすれば、大変うれしく思います。
小川 欽司 (おがわ きんじ) 昭和8年(1933)3月9日生まれ。昭和32年(1957)日本中央競馬会入会。国際室長、広報室長、栗東トレーニング・センター場長を経て、平成2年(1990)日本中央競馬会理事に。平成5年(1993)財団法人競馬国際交流協会設立と同時に初代理事長に就任。 |