1. 代表団派遣方法についての疑問
第4回アジア競馬会議は、1964年の11月6日から15日までフィリピンのマニラ市で開催された。
当時はまだ競馬会には国際部や国際課とか呼ばれる部も課もなく、国際関係の業務は、調査室の中で三上泰知調査役をチーフとした3〜4人で行われていた。1964年、すなわち昭和39年のいつごろかは失念してしまったが、ある日、三上調査役から、「北原君、外国に出張してもらえないかね?フィリピンでのアジア競馬会議にだけど」と唐突に打診された。私はその瞬間、調査室の上司と一緒に行くものと思ったが、調査室からは私ひとりで、しかも通訳として、と聞いて、即座にお断りした。数日後、三上さんから、「ほかに誰も出せないから、頼むよ」と再度懇願されて、その理由を聞いた。
フィリピンでのARC会議に消極的なのは、「内部固めに力を注ぐ」という理事長の競馬会運営の方針なのだという事を思い出し、これほど厳しいのか、と暗然とした。当時は勝馬投票券の年間売り上げは、私が入会した昭和35年には290億円余であったが、38年には535億円余に伸びていた。しかし、厩務員労組による競馬開催ストが昭和36年から毎年行われ、昭和37年からは全競労による開催ストも行なわれていた。NCKニュースには、「これだけ隆盛を極めた中央競馬が、一体内部的に安んじておられる状況であるかどうか、端的に申せば、内に非常な危険をはらんでいる状況だということを、お互いにもういっぺん反省しなければならないと思う」とある。
アジア競馬会議は、日本の提唱によって1960年に第1回が東京で開催されたが、わずか4年でその重要性が全く無視されてしまい、第4回のフィリピン会議には提唱国の中央競馬会からは、わずか3名の役職員しか、それも私みたいな英会話もほとんどできない職員を通訳として派遣するという暴挙に出たのである。
本会からの代表は、団長丹羽政一郎理事、中島剛競走馬保健研究所次長、そして小生の3名。それに外国騎手招待競走に騎乗した境勝太郎・大根田裕也騎手の2人のほか、中央競馬馬主協会連合会理事手塚栄一氏とその令嬢が加わり、中央競馬側として7名。地方競馬からは競馬主催者代表者18名、大井からの須田騎手夫妻を入れて20名。専門紙からは2名が参加し、そして旅行業者としては、名鉄旅行社の佐藤兄弟の2名が引率してくれた。
先ず小生は競馬会に入会したのが1960年で、会議は1964年11月に行われたのである。私は入会してまだ4年半しか経っておらず、競馬自体の知識・経験も乏しいうえに、海外に行ったこともなく、しかも英会話もおぼつかない新米であった。そのような職員を大きな国際会議の通訳として出席させる無謀さは、非常識もはなはだしいと思った。私のような未熟者を国際会議に通訳として派遣し、国際的に嘲笑を買うような事態をどうして避けなかったのか、私には到底理解できなかった。私も三上調査役から、ARC会議への出張を再度要請されたとき、通訳はできないからときっぱりと断るべきであったと、後々、どれほど後悔したことか。
先ず小生の英会話の能力は、会議の通訳などに通用するものではなかったためその苦痛は酷かった。会議での発言内容の概略を団長に囁くだけに終始し、質問や意見を自発的に行う時間的余裕もなかったし、日本の競馬施行の実情にも疎かったので、団長の発言を聞き出す余裕も皆無であった。
最初に宿泊ホテルに到着したとき、「どうして、ミスター富田が来ないのだ」と、フィリピン・レーシング・クラブの事務局長が嘆いたが、咄嗟に言い訳もできなかった。中央競馬会が英会話の不自由な役職3人しか派遣しないということほど、主催者のフィリピンに対し、失礼な態度はないと痛感した。
連日の会議・パーティのほか、騎手招待競走の朝の調教などで私の睡眠時間は毎日4〜5時間程度しかなかった。そして、11月11日に行なわれた国際関係会議で、私が馬事公苑での騎手学校の運営内容の概略説明をし、そのあと東京オリンピック時に建設した馬術競技施設を利用して、外国から騎手候補生を競馬会が滞在費負担の形で招聘する提案をした時、声が出なくなってしまう失態をしてしまった。過度の疲労とストレスが原因であった。幸い、着席したあとすぐにインド代表団の一人が、「JRAが滞在費持ちで外国から騎手候補生を受け入れてくれると発言したのか?」と確認しに来たので、私は頭を下げて黙って肯いた。そしてその翌年にインドから一人の少年が馬事公苑にやってきただけでも、私にはうれしい出来事であった。
しかし、11月12日に本会議が終了し、13日から観光のため各国の代表団が涼しいバギオ市にバスで出発したが、私は静養のためマニラにひとり留まり、バギオ市での通訳は名鉄旅行社の佐藤氏に依頼した。
2. 国際騎手招待競走
フィリピンは1961年にシンガポールで開催された第2回ARC会議で提唱した国際騎手招待競走を、ARC開催国としては初めて11月7日(土)と8日(日)にサンタ・アナ・パーク競馬場で、また15日(日)にはマニラ・ジョッキー・クラブのサン・ラサロ競馬場で開催した。このため、到着した翌日の朝5時頃に騎乗予定の日本人騎手3名とホテルに迎えに来た車に乗り、サンタ・アナ・パーク競馬場に向かった。車の運転をしてくれたのは、フィリピンのナンバーワンのホセ・サウロ騎手で、彼は第1回の東京大会にも参加していて顔見知りであったので、「競馬開催当日で忙しいのにすみませんね」と私が言ったところ、「私は騎乗停止中だから大丈夫」との返事で、車の中は、一瞬静かになったが、すぐに境騎手の「何をしたの?ダメじゃないの!」との質問ですぐに笑いに包まれ、賑やかになり、たちまち、日本の騎手とサウロ騎手は仲良くなり、調教や競走の準備をする時は、サウロ騎手が何かと手助けをしてくれた。
競馬場では、各調教師から騎乗の指示を受けたが、境騎手の馬が3人の中では一番有望であるとのことだった。
一日の競走回数は14競走と多く、朝9時頃から午後の4時頃まで行なわれていた。コースは左回りで、ダートコースであったが、ホームストレッチ以外は、内ラチに近い所に蹄跡で凹んだ道ができていて、そこに水が溜まっているという酷いコースであった。
レースはほとんどが短距離競走で、逃げ馬か、先行馬がほとんど勝っていた。境騎手が「レースが逃げ馬ばかりが勝って面白くないね!北原さん、俺は追い込んで勝つから、見ていてくださいよ!」「それなら格好いいけど、大丈夫かな?」「大丈夫よ!まー見ていてよ!」
また、現地騎手の鐙は長めで、騎乗姿勢も高く、いわゆるモンキースタイルではなかった。騎手の検量は天秤式で、分銅の反対側には騎手の座る椅子があり、騎手が椅子に座って足を地面から離し、分銅と水平の状態になると、検量委員が、OKと叫んで終了する。
11月7日に行なわれた国際騎手招待競走のスタート地点は、ホームストレッチの4コーナー寄りでほかのレースよりは2ハロンくらい距離が長かった。境騎手は中団よりやや後ろから少しづつ前に行き、ホームストレッチではインをつき、逃げる馬に迫って行く。スタンドは歓声と悲鳴に包まれ、境騎手の乗った馬はゴールの10メートルくらいの所で前の馬を捉え、1馬身差くらいでゴールに跳び込んだ。
後検量を終えて泥だらけの境騎手を調教師が抱きかかえてなかなか離さない。馬に乗る前に境騎手が私に囁いたように、鐙の穴をひとつだけ上げて短くし、馬を追う姿勢を低くして誰よりも格好よく、逃げ馬をきっちりとゴール前で交わして勝った。スタンドは興奮のるつぼだ。「今日のレースでこんなに格好よく勝った騎手がいただろうか?」、私は心の中で叫ぶ!観客は「ブラボー、サカイ!ジャパン、ジャパン」とこぶしを振り上げて叫ぶ。それに応えて境騎手は手を振りながら、「サンキュー、サンキュー」とスタンドの前を歩き続ける。フィリピンの競馬ファンが大声で、また「サカイ、サカイ」と叫んで応える。「これこそ、国際レースだ!境騎手が勝ってよかった」と私はまた心の中で叫んだ。
3. アメリカの参加
アメリカからは、ジョッキー・クラブの事務総長であるマーシャル・キャシディ氏を筆頭に、ケンタッキー州競馬委員会委員ミラード・コックス氏、カリフォルニア州競馬委員会元委員ロバート・ドライバー氏、ハリウッド・ターフ・クラブ広報部長ドナルド・A・ボーヒーズ氏が参加し、各人が競馬の公正確保、薬物投与防止策、およびAORC、NASRC、TRA、TRPBの役割等やアメリカ競馬全般について詳述した。そしてARCの本会議においてアメリカをARCの名誉会員とすることが承認された。
因みにマーシャル・キャシディ氏はアメリカジョッキークラブカップGII の第1回が行なわれた1960年の1月に訪日しており、ドライバー氏は奥さんと一緒に訪日した際に私がご夫妻を箱根や鎌倉に案内したことがある。フィリピン大会でのスピーチの中で、JRAと小生の名前を挙げて、「わが家族の一員ともいえる私のよき友人である北原義孝君に対しても感謝いたします。北原君は我々には非常によくしてくれ、我々の案内兼通訳をつとめてくれました」(第4回アジア競馬会議の議事録82ページ)と言っている。確か箱根で一泊しただけであったが、「ドライバーさん、子どもさんは何人?」と私が訊ねると「娘がふたり。だけど、ひとりはバストがフラットでね」「え?フラット?」「そー、フラットだよね!ハニー」「そうですよ」と奥さんもニコニコ。また、お寺に入って仁王尊の仏像を拝んだ時、「よし(義孝)!この中で帽子を被ってもいいかね?」「もちろん、構わないですよ」「頭が禿げているので、寒くてね」という会話やご夫妻の温和な顔は今でも鮮明に覚えている。
4. フィリピン人のホスピタリティ精神
(1) 日本代表団がマニラの空港に到着した際、入国手続および税関検査を受けることなく、一行を別の通路から外に出してもらったところ、フィリピン代表のレイエス博士自らが我々を乗せるバスの近くで出迎えてくれた。レイエス博士は奥様と娘さんと共に度々来日され、私とも顔なじみであった。実は、前述した境騎手が勝利した馬は、中山競馬場での境騎手の騎乗振りをじっくりと観戦し、技術を高く評価し、自国における招待競走では、自らの所有馬に境騎手を騎乗させるという約束を果たしてくれたのであった。
(2) 11月9日の午後6時から、全代表団がマラカニアン宮殿でマカパガル大統領に謁見する機会を得た。しかも、大統領が横一列に並んだ日本団の代表(10名程度)一人ひとりに握手をされた。このときはCOCKTAILESと議事録に書かれているが、宮殿で何を飲んだのか記憶はない。
(3) 謁見のあと、ハイアライの競技場で夕食をご馳走になり、そのあと生まれて初めて、ハイアライの競技を見学してどちらが勝つかの単勝賭けを楽しんだ。
(4) ホテルで初めて立食の晩餐会があったとき、眼鏡をかけた中年の白人女性が、私の前に立って、「日本人か。戦争中私の夫がシンガポールで日本の軍人に投獄され、獄中で死亡した。だから、私は死ぬまで日本人を憎んでやる!」と言って、私を睨みつけた。「それは申し訳ない。日本人の一人として謝りたい」「いくら謝られても、夫は生き返ってこない。死ぬまで日本人を怨んでやる!」と怖しい目で睨みつけて、私の傍から離れない。「心の底から謝りたい」「いくら謝られても夫は生き返ってこない!だから、私は死ぬまで日本人を怨み続ける!」「だけど、終戦時には私は10歳の子供だったんですよ」と言ったとき、いつの間にかパーティ係りの若いフィリピン女性が、白人女性に、「この人はまだ小さい子どもだったんですよ。もう勘弁して上げなさい」と言って、白人女性の背中を押して、私の傍から遠ざけてくれた。ところが、翌日の夜、いつの間にか同じ白人女性が私の前に来て、私を睨みながら、同じ言葉を発した。すると昨夜のフィリピン女性が足早に近づいてきて、その白人女性を叱責しながら、会場の外に押し出してしまった。私はそのフィリピン女性に深々とお辞儀をした。太平洋戦争で、フィリピンが戦場になったとき、111万人のフィリピン人が亡くなった国でありながら、日本人の私を、仕事とはいえ、かばってくれたその女性には頭が下がる思いがした。
(5) 11月15日の午後8時から、マニラホテルの別館でフェアウエルパーティが開かれ、クラブの副会長の経営するナイトクラブの女性が全員参加し、ダンスを楽しんだ。しかし、このとき、私は境・大根田騎手の要請で、サウロ騎手の家に呼ばれ、夕食をご馳走になっていた。
翌朝、「昨夜はどうしてフェアウエルパーティに来なかったの?本当に楽しいパーティだったよ。」と片眼をつぶりながら意味あり気に尋ねられたが、「私はずっとサウロ騎手の家で、通訳していたんですよ。嗚呼―残念だったなー」
北原 義孝 (きたはら よしたか) 昭和10年(1935)7月2日生まれ。昭和35年(1960)日本中央競馬会入会。札幌競馬場長、場外調査室長、業務部長、日本中央競馬会理事、日本中央競馬会常務理事を経て、平成8年(1996)日本中央競馬会副理事長に。平成11年(1999)財団法人競馬国際交流協会2代目理事長に就任。 |