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関係者回顧録3:「ARC 50周年に寄せて」
平成26年5月


岡本 金彌 3代目JAIRS理事長

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日本中央競馬会が競馬の国際社会との係りをもったのは、酒井忠正理事長の下、1960年(昭和35年)、アジア競馬会議(ARC-Asian Racing Conference)を東京で開催したことに始まるといっても過言ではないでしょう。 (註1)

第1回のパリ会議が現IFHA(International Federation of Horseracing Authorities)会長ルイ・ロマネ(Louis Romanet)の父ジャン・ロマネ氏の提唱により、1961年に開催されたことと比較しても、日本の取組みの早さがみてとれます。 (註2)

欧米は地理的にも近接し、歴史的にも関係が深く、人馬の交流も比較的容易である反面、各国の施策で反目することも少なくありません。

パリ会議の歴史的な成果は、馬種改良のためにベストホースを選ぶ競走番組のあり方や、生産、競走、賭事に関する諸懸案を討議し、その合意をパリ会議として世界の競馬のスタンダードとしてきたことにあります。

ARCは、アジアの競馬関係者の国際親善や情報交換を主たる目的としていて、パリ会議のような取組みは、血統書に関する外は多くは見られませんでした。

競馬会が国際競馬社会を強く認識し始めたのは、第1回ジャパンカップ競走の施行〔1981(昭和56)年〕の頃からでした。目指すところは、国際セリ名簿基準委員会(ICSC-International Cataloging Standard Committee)でパート1国に認定されることでした。1992(平成4)年外国産馬の出走制限緩和計画の実施など着々と所期の目的を達成するための施策を行ってきましたが、これを国際的に理解させるための行動力が必要とされていました。

競馬会では、国際問題は理事が担当することとなっていましたが、担当替や理事の交替が頻繁で常態化していました。このことを問題視して、国際関係を専門とする総括監に今原照之氏を任命したのは高橋政行理事長でありました〔2001年(平成13年)2月〕。それまでは競馬会では、組織としての対応こそが重要であるとの認識にありましたが、特に国際問題で日本とは異なる文化をもつ相手方と交渉や相談に及ぶ時には、フェイス・トゥ・フェイスでパーソナリティの理解により信頼を深めることが大きなポイントになることは現在では多くの方が認識しているところでしょう。

2001年の夏、ブローニュにあるフランスギャロ(France Galop)の事務所で、L.ロマネ氏にお会いして、なおさら人と人の付き合いの重要性を感じました。

「日本はIFHA執行協議会のメンバーになる意欲をもっている」と申し入れました。

「日本はパリ会議に出席する者を頻繁に変えて、日本の顔が見えない」とロマネ氏は極めて固い表情でした。

「その問題は認識している。今後は国際関係担当の総括監に今原照之氏を充て、すべての国際会議に出席することとなるので今までのようなことは起こらない」

「そういう態勢が普通なのだ」

「ところで、佐藤武良氏はお元気ですか」

「お元気です。現在競馬友の会の会長をされています」

「父のジャンが日本に行った時、佐藤氏に大変お世話になったと感謝していた」

「今原氏も私も佐藤さんの弟子(followers)を自認している。これから貴殿の期待に沿えるよう覚悟はできている」

パリからロンドンに到着し、BHB(British Horseracing Board)のピーター・サヴィル(Peter Saville)会長主催の国際会議に出席しました。 (註3)

勿論L.ロマネ氏も参加されており、香港ジョッキークラブの事務局長E・B氏(Winfried Engelbrecht-Bresges)も一員でした。E・B氏に対して上記ロマネ氏への申し入れを話して協力を求めました。

2日後、BHBの会議も終り、アスコット競馬を観戦し、帰国すべくヒースロー空港へ向け車に乗り込む直前、E・B氏が駆け寄ってこられて、「グッドニューズ」だという。

「ロマネ氏はいまIFHAの組織改正を考えている。執行協議会のメンバーもヨーロッパ、アメリカ、アジアの構成比を変えるらしい。ARCからの人数が増えるということらしい」

「ありがとう。確信していいんだネ。この情報は早速ボス(高橋理事長)へ電話する」

E・B氏がロマネ氏と昵懇の中であることは承知しておりましたが、日本の期待の方向にIFHAが動いている情報をいち早く知らせていただいたことに感謝しつつ、高橋理事長へ電話を入れました。

その年の11月、ARCはARF(Asian Racing Federation)と組織を改正し、その時今原総括監が副会長の1人に就任しました。翌年〔2002年(平成14年)3月〕IFHAはドバイの会議において、執行協議会の欧・米・アジアの地区別構成を変更し、ARFの会長と副会長2名(計3名)は、パーマネントメンバーとして確定することとなりました。 (註4)

(註1)

◎ ARC以前の国際競馬との主な係り

 1955年(昭和30年) 英国ジョッキークラブは、日本中央競馬会の競馬国際協定加入を承認する。

 1958年(昭和33年) ハクチカラ号初の海外遠征(米国)

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(註2)

ロマネ氏親子とのフランス競馬

 ジャンは1833年に設立されたフランス馬種改良奨励協会(『奨励協会』)の事務局長を勤めていた。

 20世紀後半のフランス競馬は大きく2つの難問に直面していた。1つは場内での勝馬投票(PMH)の不振であり、もう1つは国際問題としてのEU(European Union)への対応であった。EUの前身のEEC(European Economic Community)は、1958年に発足し、その推進役はフランスとドイツであり、目指すところは欧州における経済の単一市場であり、各国間の自由な経済活動に対する障壁の排除であった。

 フランスはこれまで自国の競馬産業振興のために実施してきた施策―例えばフランス産馬への奨励金支給などの優遇策は廃止せざるを得ない状況にあり、一方でフランスの馬産業を発展させなければならないという事態に直面していた。

 前のフランス大統領で、1993年当時の内務大臣であったサルコジ(Nicolas Sarcozy)氏は大胆な競馬改革を推進した。つまり、全国を統括する団体として、平地・障害・速歩の3団体のうち平地・障害を1本化してフランスギャロ(France Gallop)を1995年に設立、また競馬場の閉鎖や調教場の縮小を行う一方、発売網としての場外発売公社(PMU)の強化を図っていった。

 なお、ルイの父、ジャン・ロマネ氏は、2003年に静かに息を引き取った。

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(註3)

英国の競馬産業

1752年頃設立された私的団体"ジョッキークラブ"によって統括されていたが、運営資金は (1) ステークスマネー (2) 入場料 (3) 競馬場内でのケータリング料 (4) スポンサー (5) ブックメーカーとトート発売金への賦課金―に依っていたが、財政的に逼迫の度を加えていた。

このような状況の中で、ジョッキークラブ元会長のハーティントン卿(Lord Hartington)を会長に1993年BHB(British Horseracing Board)が設立された。権限は、戦略計画、財政、開催日割、調教及び教育、広報活動、賭事賦課金の競馬産業に対する配分割合の折衝、マーケティングなど広範かつ重要な任務を包含していた。一方ジョッキークラブは取締に関する権限を保持し存続していた。

ハーティントン会長の後任のピーターサヴィル(Peter Saville)氏は、上記任務の遂行にあたり、他国の競馬産業の実情調査の一環で、1994年JRAを訪れ、日本の競馬のあり方に深い関心を示し、IFHAのパリ会議とは別に、BHB主催の競馬主要国の競馬事業運営面の実情と課題を発表し検討する国際会議を毎年開催することとなった。なお、日本は当初からのメンバー国である。

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(註4)

◎ IFHAの組織改正に至った背景

 L.ロマネ氏は2001年10月のパリ会議において、以下のように述べている。

 「IFHAでは競馬ルールの一致と調整に力を注いできました。今後は競馬の商業的側面と勝馬投票が世界的に重要な取り組むべき課題であり、IFHAのこれからの仕事になる...」

また、現在の執行協議会の問題として以下の3点を挙げた。

  1. イギリス(ジョッキークラブとBHB)、アイルランド〔ターフクラブとHRI(Horse Racing of Ireland)〕そしてアメリカ〔米ジョッキークラブとNTRA※1(National Thoroughbred Racing Association)−ブリーダーズカップ社※2〕などの競馬主要国において、統括機関が2つ存在しており、それに配慮しないといけないこと。幸いなことにフランスには当てはまりません。
  2. 執行協議会におけるアジア競馬会議(ARC)※3南アメリカ競馬South America Racing Organization)※4からの代表者数について検討すること。
  3. メンバーの選出については、......各国において現役で活躍している幹部役員が選ばれるようにしなければならないこと。

※1 アメリカにおいては、各州の競馬委員会の下で個々に独立して競馬が開催されている。1970年代より勝馬投票の売上が下降しており、競馬関係者―特に生産者は危機感を募らせていた。ゲインズウェイファームのJ・ゲインズ氏を中心に、1984年ブリーダーズ協会が発足し、種付け料の一部を積み立て、それを基金として、高額賞金のブリーダーズカップ競走を新設し、競馬の話題提供とアメリカ全土の競馬の振興を目指していた。

 ブリーダーズ協会は、ブリーダーズカップ競走を専管させるため、ブリーダーズカップ社を設立し競走を実施してきたが、高額賞金の提供だけでは競馬の再興に限度がみられた。

 アメリカにおける競馬の人気向上及び競馬産業の経済状況の改善を目指し、具体的施策として、マーケティング・コマーシャル・プロモーションそしてアメリカ全土への各主要レースのTV放映を実行に移すために、ブリーダーズカップ社を含むアメリカ競馬産業に関わる者の幅広い連携が求められていた。

 そして、1998年、ブリーダーズカップ社、オーナーブリーダーズ協会、米ジョッキークラブ、キーンランド協会、オークトリー競馬協会及び全国サラブレッド協会の業務・資金提携の下に、NTRA(National Thoroughbred Racing Association)が設立された。

 2002年には、NTRAのティム・スミス会長により、ブリーダーズカップ競走がブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ(BCWTC)に充実され、シリーズ競走としては、イギリスのアスコット競馬やドバイのワールド・チャンピオンシップ及び香港のクイーンエリザベス II カップなどと並んで世界に名を馳せている。

※2 アメリカの国際競走は、メリーランド州のローレル競馬場で施行されたワシントンDCインターナショナル競走が有名であった。1962年のタカマガハラ号以来タケシバオー号やメジロムサシ号など日本馬も何度も参加していたが、上記のブリーダーズカップ競走が高額賞金の魅力の下、アメリカは勿論世界のトップホースの出走を促すことになり、ついに1995年その幕を閉じることになった。

※3 欧米諸国においては、1970年代より競馬の人気が下降しはじめ、一方アジア地域においては、ARCへの加盟国が増加し、日本や香港などで勝馬投票の売上げが大きく伸長し、また豊富なオイルマネーで競馬に参画しているドバイなどの勢力も加わり、世界の競馬地図において大きな存在となってきていた。

※4 現在の南米競馬機構(OSAF=Organización Sudamericana de Fomento del Pura Sangre de Carrera)のこと。

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岡本 金彌 (おかもと きんや)

昭和15年(1940)11月20日生まれ。昭和39年(1964)日本中央競馬会入会。総務部長、人事部長、総合企画室長、東京競馬場長、日本中央競馬会理事、日本中央競馬会常務理事を経て、平成13年(2001)日本中央競馬会副理事長に。平成16年(2004)財団法人競馬国際交流協会3代目理事長に就任。



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