トニービンを手掛けたカミーチ調教師が死去(イタリア)[その他]
1988年凱旋門賞(G1)優勝馬トニービンを手掛けたルイージ・カミーチ(Luigi Camici)調教師が、93歳で死去した。
同調教師は1938年伊ダービーを制した偉大なネアルコを目にした、戦前のイタリア競馬を知る数少ないホースマンの1人だった。
競馬一家の出身で、従兄弟のエンリコ・カミーチ(Enrico Camici)騎手はリボーで凱旋門賞を連覇して国際的に名を上げた。ルイージ・カミーチ調教師は、有力なマントヴァステーブル(Mantova Stable)の厩舎長を同ステーブルが解散する1976年まで務め、調教師免許を取得したのは50歳になってからだった。
同調教師が手掛けた中で、トニービンが最も大きな成功を収めた馬であることは疑う余地がない。同馬は3,000ギニー(約44万円)で購買され、実業家のルチアーノ・ガウチ(Luciano Gaucci)氏が所有していた。
トニービンは1987年、サンクルー大賞(G1)で2着となった後、凱旋門賞(G1)でキャッシュ・アスムッセン騎手が乗ったトランポリーノの2着となった。5歳となってその才能はさらに開花し、キングジョージ6世&クイーンエリザベスS(G1 アスコット)でムトト(Mtoto)の3着になるなど健闘していた。
カミーチ調教師は凱旋門賞の7日前にトニービンをフェデリコテシオ賞(G3)に出走させるという予想外の進路を取った。同調教師はムトトを破って凱旋門賞を優勝する前に、「スピードのある調教をするには、ロンシャンに向かう道中にあるミラノで使う以外の方法が思いつかなかったからです」と語っていた。
ジョン・リード(John Reid)騎手はフェデリコテシオ賞でトニービンに乗って優勝したが、凱旋門賞で引き続きトニービンに乗るためにあらゆる手立てを尽くさなければならないと考えていた。
リード氏はこう語った。「当時、ヴィンセント・オブライエン厩舎の馬に騎乗していました。トニービンに騎乗するためにイタリアに行ったとき、オブライエン調教師はびっくりして飛び上がりました。私がエージェントのピーター・シューマーク(Peter Shoemark)氏に『我々は凱旋門賞を勝つチャンスがあると思う』と伝えたことに、オブライエン調教師は目を見張っていました」。
「オブライエン調教師は翌日電話を掛けてきて、凱旋門賞に出走するダークロモンド(Dark Lomond)の騎乗を任せるつもりだと言いました。しかし、私はトニービンの実力を信じ切っていたので、『ダークロモンドの騎乗からは外してください』と頼み、彼はそれを受け入れました。その後のことは周知のとおりです」。
リード氏はこう続けた。「ルイージは愛すべき人で本当に優秀なトレーナーでした。私はイタリア語をあまり話せず、彼も英語をあまり話せませんでしたが、親しくなりました。凱旋門賞で優勝することができて、その日は人生でとても重要な日となりました。ルイージには大きな恩義があります」。
カミーチ調教師は、イタリア競馬界で広く"イル・ソル・ルイージ(Il Sor Luigi ミスター・ルイージという意味)"と呼ばれて親しまれる存在だった。チャンピオン馬を手掛けた調教師であるだけではなかった。10代でイタリアのチャンピオンジョッキーとなり、フランスと香港で大成功を収めたウンベルト・リスポリ騎手のようなジョッキーがキャリアを開始するのを支援した。
カリフォルニアを新たな拠点とするリスポリ騎手はこう語った。「ルイージ・カミーチはこれまで会った中で最高の人物の1人です。信じられないほど優秀なホースマンで、生粋のジェントルマンで、トップクラスのトレーナーでした」。
カミーチ調教師は晩年、息子ファブリジオ氏と共同で調教活動を行った。そして、英国で唯一の勝馬を出すことになる。それはフランキー・デットーリ騎手が騎乗して2004年ウィンターダービーを制したカルキ(Caluki)である。
イタリアでは、2004年伊ダービー(G1)をグルームテス(Groom Tesse)、1996年伊オークス(G1)をジェルミニャーナ(Germignana)で制している。
By Scott Burton
(1ポンド=約140円)