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2021年05月20日  - No.18 - 4

ブリガディアジェラードの主戦、マーサー騎手が86歳で死去(イギリス)[その他]


 5月17日に86歳で亡くなったジョー・マーサーは、1979年にリーディングタイトルを獲得し、ブリガディアジェラードの全レースで鞍上を務めた偉大なジョッキーだった。

 国内2,810勝を達成し、これは勝利数において英国歴代騎手の中で10位内に入るものである。また騎手として、ディック・ハーン厩舎やヘンリー・セシル厩舎に所属した。

 マーサーはエリザベス女王が所有したハイクレアでクラシック2勝を果たし、「世紀のレース」となったキングジョージ6世&クイーンエリザベスS(以下キングジョージ)でバスティノの鞍上を務めた。他にもソング、サラスト、クリス、驚異的なステイヤーであるバックスキンとルモス、キングジョージを制した牝馬タイムチャーターなどのスター馬に騎乗した。

 ジョン・オークシー(騎手・ジャーナリスト・作家・アナウンサー・慈善家として活躍した競馬界の伝説)は、「彼は私がこれまで会った中で最もスマートな平地ジョッキーであるだけでなく、最も安定していて有能な、何よりも信頼できるジョッキーです」と記した。

 マーサーは騎手引退後、マクトゥーム殿下のゲインズボロースタッドのレーシングマネージャーを19年間務め、ジルザルやクリスキンを成功に導いた。

 ジョー(本名:ジョセフ)・マーサーは、1934年10月25日、ブラッドフォードで馬車塗装業者の息子として生まれた。ジョーが13歳の誕生日にフレッド・スニード厩舎(バークシャー州スパーズホルト)のもとで見習騎手になったとき、6歳年上の兄マニー氏はすでにジョッキーとして成功していた。

 1950年9月にバース競馬場でエルドレット(Eldoret)に騎乗して初勝利を挙げたとき、ジョーはまだ15歳で、体重は6ストーン7ポンド(約41kg)だった。 見習騎手ランキングでは、1952年にレスター・ピゴットに次ぐ2位、1953年にはピゴットを2位、親友のジミー・リンドリーを3位に下して首位に立った。

 1953年はまだスニードの下で働いていたものの、ジャック・コリング厩舎(バークシャー州ウェストイルスリー)の馬にも騎乗し始めた。この協力関係は、英オークスでアンビギュイティ(アスター子爵所有)に騎乗した若きマーサーがサー・ゴードン・リチャーズを抑えて優勝したことで、早々のクラシック勝利をもたらした。

 マーサー&コリングのコンビはその後、ホーンビーム(Hornbeam)で英セントレジャーSとゴールドカップの2着を達成し、最優秀2歳牝馬のロザルバをクイーンエリザベス2世Sで勝利に導いた。

 1959年のアスコット競馬場でのロザルバの記念すべき日は、マーサーの騎手生活において最も悲劇的なものとなった。クイーンエリザベス2世Sの次のレースの発走前に、兄マニーが騎乗していた牝馬から投げ出され死亡したのだ。マーサーは泣きながら競馬場を後にした。

 同じ年のダービーでフィダルゴ(Fidalgo)に騎乗したときには、義理の父であるハリー・カーが騎乗したパーシアに1½馬身差をつけられて2着となり、マーサーにとって最も惜しいダービーとなった。

 1959年2月には、アン・カーと結婚。のちに3人の子、ヘンリー、サラ、ジョーjnr.をもうけた。

 コリングは1962年末に調教師を引退し、ディック・ハーンがウェストイルスリーの厩舎を引き継いだ。この新しい協力関係の初期に活躍した馬には、ステイヤーのグレイオブファロデンとプロヴォークがいた。プロヴォークは1965年英セントレジャーを土砂降りの雨の中10馬身差で制した。

 マーサーは1967年8月にリーディング争いで首位に立っていたが、フォークストン競馬場でひどい落馬事故に遭ったことが原因で残りのシーズンを棒に振った。

 また、デリック・キャンディの管理馬で多くの勝利を挙げた。中でも、パーバリー(1967年ゴールドカップ優勝)、ソング(1969年最優秀短距離馬)、ハイライン(1969~71年ジョッキークラブカップ3連覇)が有名である。

 マーサーはいくつかの冬をインドで騎乗がてら家族と一緒に過ごしていたが、1970年2月に帰国の際、ボンベイ空港の税関でダイヤモンド2個を申告しなかったことで逮捕され、悲惨な時間を過ごした。密輸の罪で3ヵ月の実刑判決を受けたが、罰金を支払って20日後に釈放された。

 その年にウェストイルスリーの厩舎が送り出した最高の馬は、ヴェルメイユ賞を制したハイエストホープスと、ミドルパークSで優勝したブリガディアジェラードだった。

マーサーが騎乗した中で最高の馬と言っても過言ではないブリガディアジェラードは、その後の2シーズンで目を見張るような連勝を達成した。1971年英2000ギニーではミルリーフを破り、クイーンエリザベス2世Sと英チャンピオンSをそれぞれ2勝し、エクリプスSとキングジョージも制した。そして、18戦した同馬に唯一土をつけたのはロベルトだった[現在の英インターナショナルSであるベンソン&ヘッジズゴールドカップ(ヨーク競馬場)]。

 1972年6月、ニューベリー競馬場を飛び立った軽飛行機がその直後に墜落してパイロットが死亡したが、機内にいたマーサーは運よく生き残り、ビル・マーシャル調教師を含む他の3人の乗客を救出した。その2日後、プリンスオブウェールズSでブリガディアジェラードに何とか騎乗できたが、まだ打撲傷がひどくて動揺していたために、その後数日間の休養を取った。

 ブリガディアジェラードの同厩舎馬サラスト(サー・マイケル・ソーベルの所有馬)は、サセックスSとムーランドロンシャン賞を制したので、例年ならば最優秀マイラーとなっていたことだろう。

 ウェストイルスリーの厩舎に馬を預託する著名な馬主の中にはエリザベス女王もいた。マーサーは女王の牝馬ハイクレアに騎乗して1974年の英1000ギニーと仏オークス(ディアヌ賞)で勝利に導いた。同じ年、バスティノで英セントレジャーを制したが、翌年のキングジョージではこの馬でグランディとの壮絶な戦いを繰り広げたものの敗れた。

 バスティノの馬主であるレディ・ビーバーブルックは、ボールドボーイやレルキノなどの名馬を所有していた。レルキノは1976年英ダービーでエンペリーに3馬身差で下され、マーサーにとって2頭目のダービー2着馬となった。

 そのダービーの翌日、"マーサーの24年間にわたるウェストイルスリーの厩舎との契約がシーズン終了後に更新されず、ウィリー・カーソンが後任となる"という発表があり、競馬界は唖然とし怒りに包まれた。

 マーサーは前年10月に、ウェストイルスリーの厩舎を所有する一族の一人、サー・アーノルド・ワインストック(後のロード)からこの決定について聞かされていた。サー・アーノルドは長年にわたって騎乗してくれるジョッキーを探していて、マーサーは41歳、カーソンは33歳だった。

 その結果、マーサーはダービー優勝を手にすることはなかった。ハーンが手掛けたダービー馬、トロイとヘンビットに乗れず、エリザベス女王所有のダンファームリンに騎乗する機会も奪われた。その一方で、ウェストイルスリーに残っていたらリーディングジョッキーにはなれなかっただろう。

 1977年にヘンリー・セシル厩舎の所属騎手となり、1979年に一度限りであるがリーディングジョッキーに輝いた。当時45歳だったマーサーはこのタイトルを史上最年長で初受賞した騎手となり、その記録は未だ破られていない。

 セシルが手掛けた数々のスター馬はマーサーのこの驚異的な年に貢献した。それは、最優秀マイラーのクリス、驚くべきステイヤーであるバックスキンとルモス、そして英1000ギニー優勝馬ワンインアミリオンなどである。

 マーサーは1980年、競馬への貢献が認められてOBE(大英帝国四等勲士)を授与された。この年、ルモスで3つの主要カップレース(ゴールドカップ/グッドウッドカップ/ドンカスターカップ)を制し、ライトキャバルリー(ジム・ジョエル氏所有)は終始先頭に立って英セントレジャーを制したのだ。

 この年の終わりに、トップジョッキー3人が所属先を取り換えた。パット・エデリーはピーター・ウォルウィン厩舎を去ってピゴットの後任としてヴィンセント・オブライエン厩舎に移籍し、ピゴットはマーサーの後任としてセシル厩舎に移籍し、マーサーはニューベリー近郊の自宅からニューマーケットへの移動に疲れてウォルウィン厩舎に移籍した。

 不幸にもウォルウィン厩舎はグランディが活躍した栄光の時代を終えて衰退しており、1981年にマーサーが騎乗して最も勝利を挙げたのは、皮肉にもハーンの管理馬だった。カーソンが負傷していたため、ハーンは英セントレジャーで単勝29倍のカットアバヴの騎乗をマーサーに依頼し、この牡馬はシャーガーを4着に破って優勝した。カットアバヴの馬主は、ロザルバやプロヴォークも所有したサー・ジェイキー・アスターだった。

 タイムチャーターはマーサーが騎乗した最も優れた牝馬だった。1982年の英オークス馬である。しかしマーサーは、1983年キングジョージでこの馬に乗って優勝したとき乗り替わりのジョッキーに過ぎなかった。この牝馬の調教師は、ソングを手掛けた調教師の息子、ヘンリー・キャンディだった。

 51歳になったマーサーは、1985年のシーズン末に最終騎乗となったノーベンバーH(ドンカスター)をボールドレックスで制して騎手を引退した。この勝利は、マーサーにとって国内通算2,810勝目となり、当時の英国歴代最多勝騎手ランキングでリチャーズ、ピゴット、ダグ・スミスに次ぐ4位となった。

 1年間騎手のエージェントを務めた後、1987年にマクトゥーム兄弟の長男マクトゥーム殿下のゲインズボロースタッドのレーシングマネージャーに就任し、殿下とその関係者が所有する馬の管理を行った。

 ゲインズボロースタッドでの19年間、カドージェネルー、ジェットスキーレディ、ハトゥーフ、エズード、ロイヤルアプローズ、ストーミングホームなど、マクトゥーム殿下が所有する数々のスター馬が活躍した。ファンタスティックライトはゴドルフィンに移籍する前は殿下に所有され、バランシーンはゴドルフィンに移籍後も殿下の勝負服を背に走った。

 ゲインズボロースタッドの旗の下で活躍した馬の中で最も優れていたのは、輝かしい1989年の最優秀マイラー、ジルザルだった。また、2歳時のシャマルダルをはじめ、2歳時のラムタラ、シェイクアルバドゥ、セイエダティ、ルソー、クイーンズロジック、キングズベストや2003年英ダービー馬クリスキンもいた。つまり、マーサーはレーシングマネージャーとして主要なクラシック競走を制覇したのだ。

 2006年1月にドバイ首長だったマクトゥーム殿下が亡くなり、その2ヵ月後にマーサーは引退した。

 パイプ愛好者のジョー・マーサーは偉大なジョッキーであり、人気があり、体重の問題を抱えたことのない完璧なプロであった。彼の古典的なスタイルと完璧なリズム、特に激しいフィニッシュの仕方には、動きの中の詩を思わせるようなものであり、それにより彼は見習騎手たちが真似する理想的なモデルとなっている。

By John Randall 

[Racing Post 2021年5月17日「Joe Mercer: all-time great whose classical style made him a perfect role model」]

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