日本はいかにして競馬大国になったのか(日本)(2)[生産]
このように莫大な血統への投資が定着するあいだに、日本調教馬が少しずつ国際的に活躍し始めていた。国際舞台で日本のホースマンたちの未熟さがはっきりと露呈することもあったが、結果は励みとなるものだった。
1998年にシーキングザパール(父シーキングザゴールド)がモーリスドゲスト賞(G1)を制し、日本調教馬として海外G1初優勝を達成した。その1週間後にはタイキシャトル(父デヴィルズバッグ)がジャックルマロワ賞(G1)を制して2勝目を果たすことになった。そして2000年には、アグネスワールド(父ダンジグ)がジュライカップ(G1)を制した。その前年の凱旋門賞(G1)では、エルコンドルパサー(父キングマンボ)がモンジューの2着に惜敗していた。
ハリー・スウィーニィ氏は、「勇気づけられる結果ではありましたが、着目すべきなのはそれらの馬が競走のために日本に輸入されていた外国産馬ということです。生産のために行った投資からまだ効果が出ていなかったのです。しかし、直後に形勢が変わりましたね」と振り返る。
日本で生産および調教された馬で初めて海外G1を制したのはシーザリオ(父スペシャルウィーク)である。2004年アメリカンオークス(G1 ハリウッドパーク)で4馬身差の圧勝を決めた。これはさまざまな面で意義深い勝利だった。
スウィーニィ氏は、「その後、ホースマンは日本産馬に自信を持ち始めました。そして同時に、競走のために輸入される外国産馬の数も減りました」と述べた。
海外のトップクラスの馬への投資が実を結びつつあったのだ。しかし、ほかの分野での進展も同じように重要だった。
合田直弘氏はこう証言した。「生産者は土地の質を改善するのに多くの時間と資金を費やしたのです。特に若馬や現役競走馬の栄養についてかなり研究しました」。
「また、素晴らしい調教施設もたくさん作りました。坂路調教や人工馬場の有用性について学んだのです。JRAも素晴らしい調教施設を建設していますが、民間の調教施設もたくさんあります」。
もう1つの特徴として、日本の若いホースマンが世界のトップクラスの調教師のもとで働くことに積極的であることが挙げられる。
彼らはさまざまな調教技術を吸収し、同時にホースマンシップや育成技術を向上させた。また、異なる環境下で馬を調教するのに何が求められるのかを見極めていったのである。
合田氏はこう続けた。「20年前に日本馬が海外遠征するようになったとき、彼らは試行錯誤を繰り返し、失敗も多かったのです。しかし今では、海外遠征のためにどのように準備すべきか分かってきています。どのタイミングで輸送すべきか、またどのような調教メニューを組めば良いかなどです」。
日本がこのように変貌を遂げる中で、90年代の終わりごろに、より多く人が競馬に参加しやすくなるもう1つの重要な展開が根付き始めていた。それまでほとんどの若馬は生産者が組織した個人的なセリなどで購買されていた。
合田氏はこう語った。「1997年に日本競走馬協会(JRHA)が当歳馬や1歳馬のセールを開始しました。それまでは、優れた血統や馬格をもつ馬のほとんどは馬主や調教師により直接取引されていました」。
「JRHAのセリが国内市場を変化させたのは確かです。庭先取引は年々少なくなっています。それにJRHAのセリは新参者が馬取引に加わるのを容易にしました」。
「20年~30年前、新参者がコネクションを見つけるのは至難の業でした。セリに参加するには、まず調教師を見つけて、優秀な生産者に出会う必要があったのです。現在、市場は誰にでも開かれていて、これはとても大事なことだと思います。成功したビジネスマンが新規馬主になるケースをたくさん見てきました」。
吉田三兄弟はJRHAセールの強力な支援者である。彼らの最高級の若馬のほとんどは、当歳馬あるいは1歳馬としてセリに上場される。一方、彼らは4つの有名クラブ法人に自家生産馬を供給している。競走馬を所有する形態として、クラブ法人の人気はますます高まっている。
高額な費用を必要とするクラブ法人もあるが、たとえば吉田ファミリーに関係するクラブ法人以外では、昨年のBCフィリー&メアターフ(G1)や香港カップ(G1)の優勝馬ラヴズオンリーユーを所有していたDMMドリームクラブがある。このクラブ法人は、生涯獲得賞金が600万ポンドを超えるこの牝馬を所有するパートナーシップとして1,000人の会員を登録していた。
By Julian Muscat
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[Racing Post 2022年6月8日「'It was shocking' - how Japan turned it around to become a superpower in racing」]