殿堂入りのフランケル調教師、68歳で逝去(アメリカ)【その他】
チャド・ブラウン(Chad Brown)調教師は、殿堂入りを果たしたボビー・フランケル(Bobby Frankel)調教師の指導がなければ、現在の自分はなかったと思っている。
5年間フランケル調教師の助手として働いたブラウン調教師は、フランケル調教師の指導がなければ実際自分の経歴がどうなったか見当がつかないが、少なくとも、ブリーダーズカップに優勝する一連の馬を調教することはおそらくなかっただろう。
カリフォルニア州パシフィックパラセイズにある自宅で11月16日に、リンパ腫との壮絶な闘病の末死去した昔の上司に関して、ブラウン調教師は、「フラ ンケル調教師は、私の人生の進む道を変えてくれました。しかも、私は彼に影響を受けた大勢の人々のほんの1人に過ぎません」と述べた。フランケル調教師は 享年68歳であった。
「フランケル調教師は、人に影響を与える力と才能に溢れていました。彼はホースマン、調教師そして人間として面倒見が良く、助手や馬に対して大変気を配っていました。彼は何事にもよく世話をする人でした」とブラウン調教師は語った。
ブラウン調教師は、フランケル調教師の死を悼んでいるサラブレッド競馬産業の多くの人々の1人である。ニューヨーク州ブルックリン生まれのフランケル調 教師は、最優秀調教師としてエクリプス賞を5回受賞した2人しかいない調教師の1人であり、闘病生活に入ってからはほとんど公の場には現われなかった。
NTRA(全米サラブレッド競馬協会)のアレックス・ウォルドロップ(Alex Waldrop)会長は、「ボビー・フランケル氏は、サラブレッド競馬史において最高の調教師の1人です。彼の抜きん出たホースマンシップと競馬に関する 鋭い洞察力とが相まって、彼はこの40年間競馬界の第一人者であり続けました。彼の計り知れない才能と馬への揺ぎない愛情を失ったのは、大変惜しまれま す」と語った。
フランケル氏は初めてのエクリプス賞を1993年に受賞し、1995年に殿堂入りを果たした。しかし、彼のキャリアがその時点でピークを迎えていたとい うわけでは決してなかった。2000年には、同調教師の厩舎が10ヵ所の競馬場で22の重賞を制するとともに、管理馬アプティチュード (Aptitude)でケンタッキーダービー(G1)とベルモントS(G1)の2着になり、4年連続のエクリプス賞受賞のスタート年となった。
2000年から2008年までの9年間、フランケル厩舎は年間1000万ドル(約10億円)以上の賞金を8回獲得した。また同調教師は生涯で延べ1万 7657頭の出走馬で3654レースを制し、彼の管理馬は2億2794万7775ドル(約227億9478万円)を稼ぎ出し、歴代収得賞金リストではD・ ウェイン・ルーカス(D. Wayne Lukas)調教師に続いて2位である。
フランケル調教師はまた、アルデバラン(Aldebaran)、ベルトランド(Bertrando)、ゴーストザッパー(Ghostzapper)、ジ ンジャーパンチ(Ginger Punch)、インターコンチネンタル(Intercontinental 英国産)、ルロワデザニモー(Leroidesanimaux ブラジル 産)、ポッシブリーパーフェクト(Possibly Perfect)、ライアファン(Ryafan)、スクワートルスクワート(Squirtle Squirt)およびワンデスタ(Wandesta 英国産)の10頭の管理馬でエクリプス賞を11回獲得している。同調教師は2003年、25のG1競 走を優勝しており、これは1シーズンで成し遂げられたG1勝鞍数では世界記録である。
しかし、このような派手な数字は彼の経歴の一部しか物語っていない。他の調教師たちは、彼がウィナーズサークルに到達する回数よりも、彼のホースマンシップと管理馬の力を最大限に引き出す能力に感銘を受けた。
フランケル氏の長年の友人であり、ニューヨーク州を拠点とするリチャード・ダトロー(Richard Dutrow Jr.)調教師は、「彼はこれまでで最高の調教師です。私は何かを考えるときに、しばしばボビーに問いかけてみました。良いホースマンはそれほどいるわけ ではなく、ボビーは最高のホースマンの1人でした」と語った。
同調教師は次のように付け足した。「調教師は1000人ぐらいいるのでしょうが、優れたホースマンは5人ぐらいしかいません。ボビーは信じられないよう な存在でした。彼はゼロから出発し、競馬界の頂点にまで登りつめました。ボビーのような人は余人をもって代えがたいです。彼をなくしたことが惜しまれま す」。
殿堂入り騎手であるエディ・デラフーセイ(Eddie Delahoussaye)氏は、フランケル調教師のぶっきらぼうな外見は、多くの人々に彼が本来面倒見が良くて思いやりのある性格であることを理解しにくくしていたと語った。
そして、次のように付言した。「ボビーは素晴らしい人でした。彼は他の人々が知らない舞台裏で多くのことを行いました。彼は非常に寛大であり、面倒見が よかったです。彼の管理馬に乗るのは素晴らしいことでした。どのように騎乗するか注文をつけることはなく、騎手を信頼してくれました。彼はパドックで騎手 の足上げを行うとき、騎手はやるべきことを分っているはずだと悟っていました」。
「彼は素晴らしいホースマンでした。彼は馬の能力を見抜き、自身の管理馬をどのレースに出すかよく心得ていました。仕事に励んでいるときは優しい人では ありませんでした。彼の事を知らない人は、彼を腹立たしい人物であると思ったかもしれません。競馬場の外にいるときの彼を知らなければなりません。彼は非 常に親切でしたが、それを皆に見せつけようとはしませんでした」。
フランケル調教師は、1960年代半ばに、ベルモントパーク競馬場とアケダクト競馬場の競馬場の曳き馬係から競馬界でのキャリアをスタートさせた。彼は 1966年に調教師免許を取得し、クレーミング競走で得た馬をステークス出走馬に育て上げる手腕を買われ“クレーミングの王様”の評判を得た。
そして1972年にカリフォルニア州に拠点を移し、フランケル調教師の調教の能力はたちまち新しい環境で開花した。同調教師は1972年〜77年にハリ ウッドパーク競馬場で6回連続、1975年〜82年にサンタアニタパーク競馬場で5回、年間最優秀調教師のタイトルを獲得した。その他に、1973 年〜82年の11年の間に、サンタアニタパーク競馬場のオークツリー開催で7回リーディングトレーナーに輝いた。
フランケル調教師の特技の1つは個々の馬を把握する能力であり、とりわけ難しいトゥーソード(Toussaud)を調教したことを誇りとし、トゥーソー ドが、メートリアークS(G1)でチャンピオン馬フローレスリー(Flawlessly)にクビ差まで迫ったことをその年の最高の業績であると述べてい た。
トゥーソードはジャドモント牧場(Juddmonte Farms)の基礎繁殖牝馬となり、2000年アーリントンミリオンS(G1)の優勝馬チェスターハウス(Chester House)、2003年ベルモントS(G1)の優勝馬エンパイアメーカー(Empire Maker)を含む5頭の重賞勝馬を輩出した。なお、この産駒2頭はいずれもフランケル調教師が管理した。
ケンタッキー州レキシントンのジャドモント牧場のマネージャーであるギャレット・オールーク(Garrett O’Rourke)氏は次のように述べた。「フランケル調教師の調教した優良馬すべてが活躍したという点から見て、私たちと同調教師との関係は驚くほど実 りあるものになりました。それらの優良馬は、私たちの放牧地にあふれています。今朝牧場を車で通り抜けたとき、私はフランケル調教師が手がけたすべての繁 殖牝馬と種牡馬に目をやりました。彼は私たちの組織に引き継がれていく大変多くのことをもたらしました」。
フランケル調教師は芝競走の出走馬を仕上げる名人でもあった。同調教師は、アーリントンミリオンS(G1 2回)、BCフィリー&メア・ターフ(G1 2回)、ウッドバインマイル(カナダ-G1 3回)、ジャパンカップ(G1 勝馬ペイザバトラー)を含む賞金額100万ドル(約1億円)以上の芝競走を 28回制している。
ブラウン調教師は次のように語った。「フランケル調教師はいつも、ホースマンとして時代の変化について行くように私に言っていました。彼は“僕は70年 代にやっていた方法では調教をしていない”と言っていました。しかし、私の見たところでは、彼は引き続き基礎的なことをしっかりやっていました。彼は時代 の流れについて行くことと基本に根ざすことのバランスを非常にうまく保っていました」。
「彼は競馬の世界で偉業を達成するのに、必ずしも牧場で育ったり、競馬関係者の子息である必要はないことを証明しました。第2のボビー・フランケルが出 てくることはないでしょう。彼の死は本当に大きな損失です。調教師は栄枯盛衰が激しいですが、フランケル調教師は何十年も勝ち続けたのです」。
フランケル調教師は、娘のべスニー(Bethenny)を残して旅立った。葬儀は、11月17日午後3時に、ロサンジェルスのセンチネラ通りのヒルサイドメモリアルにおいて行われる。
By Steve Bailey and Pete Denk
(1ドル=約100円)
[thoroughbredtimes.com 2009年11月16日「Hall of Fame trainer Frankel dies at 68」]