アーキャロ騎手とハータック騎手の確執(アメリカ)【その他】
「何回勝利したのかは、問題ではない。中国、オーストラリアあるいはヨーロッパで人々が騎手に最初に質問するのは、ケンタッキーダービー(G1)に勝ったことがあるかだ」。
そう語ったのは、有名なエディ・アーキャロ(Eddie Arcaro)騎手である。彼は、もう1人の著名な騎手であるビル・ハータック(Bill Hartack)と共にケンタッキーダービーの最多勝利記録(5回)を保持している。その記録は、今後も長い間にわたって破られそうにない。というのは、 故ビル・シューメーカー(Bill Shoemaker)でさえ、このダービーでの勝利回数は4回だったからである。
アーキャロとハータックは、決して友人同士になることがなかった。以前、アーキャロは、「ハータックは偉大な騎手だが、個人的には好きではない。彼の行 動は予測がつかない。あるとき友好的な態度を示しても、次の瞬間には、見知らぬ人間に接するような態度を取る」と語ったことがある。
ハータックのエージェントを務めていたチック・ラング(Chick Lang)氏は、インタビューを受けた際、ハータックは自分が優位に立つことができない人間、特に競争相手である騎手たちに好意を持つのが苦手であることを暴露した。
「ハータックは、アーキャロに追いつくことができませんでした」とラング氏は語った。「ハータックは、アーキャロに強い印象を与えることができませんで した。それは、ベーブルース(Babe Ruth)やジャック・デンプシー(Jack Dempsey)の心をつかもうとするようなものです。彼らは偉大すぎるので、普通の人々を無視するのです。アーキャロは、好敵手だった騎手の名前を挙げ て下さいと尋ねられたら、シューメーカー、ブラウリオ・バエザ(Braulio Baeza)、そして、恐らく他の2、3の騎手の名前を挙げるでしょうが、ハータックの名前は決して出さないと思います」。
ハータックは激怒した。2人の間の嫌悪は、やがて競馬界特有の確執に発展した。だが、競馬関係者の中でその事実を知っていたのは、一握りの人々に過ぎなかった。そして、その事件が起こったとき、この2人の騎手は互いに数百マイル離れた場所にいた。
1958年の9月、アトランティックシティ競馬場のジョッキールームにおいて、レースを終えたハータックは、同僚騎手のジミー・ジョンソン(Jimmy Johnson)氏にパンチを食らわせた。そのレースでハータックの馬は勝利を収めたが、ジョンソンが騎乗した2着馬を妨害したのである。裁決委員たちは ハータックの馬を失格にし、ジョンソンの馬を勝利馬にした。そして、乱暴な騎乗を行なったハータックを10日間の騎乗停止にすると共に、ジョンソン氏を殴 打したことで騎乗停止期間を更に5日間延長した。
その暴力事件は、全国のスポーツ紙で広く報道された。当時、論争に関わることが滅多になかったデイリーレーシングフォーム紙(Daily Racing Form)でさえ、『ハータックは大人にならなくてはならない』という見出しの論説の中でハータックを批判した。
アーキャロはニューヨークで騎乗していた。だが、アーキャロは騎手組合の会長を務めていたので、記者たちにその事件のコメントを求められた。報道機関に 常に好意的に接していたアーキャロは、ハータックを批判して、「彼はいずれ落ち着くでしょう。いや、冷静になるべきです。競馬は勝てば良い、というもので はありません。彼は、自分も騎手の一人であることを認識しなければなりません。私もひとりの騎手に過ぎません。彼は、他の人々とうまくやっていく必要があ ります」と述べた。
その後、アーキャロは恐らくその事件のことを忘れていたと思われる。アーキャロがそのユニークな確執を明らかにしたのは、1961年のフロリダダー ビー(G1)に出走したときであった。当時、アーキャロはカリフォルニアから空路でフロリダに入った後、カルメット牧場(Calumet Farm)所有のボウプリンス(Beau Prince)に騎乗し、3着になった。勝利馬は、ジョン・セラーズ(John Sellers)騎乗のキャリーバック(Carry Back)であった。
レース後にアーキャロがガルフストリームパーク競馬場のジョッキールームで、マイアミヘラルド紙(Miami Herald)のスポーツコラムニストであるエドウィン・ポープ(Edwin Pope)のインタビューを受けていたとき、フレッド・フーパー(Fred Hooper)所有のクロージャー(Crozier)に騎乗して2着に入ったハータックがそばを通り過ぎたが、一言も喋らなかった。このときアーキャロ は、「君は知っているか?あの男は2年間も私を無視していたが、私はそれに気付きさえしなかったんだよ」と言った。
のちに、1958年9月の事件について、ハータックはマイアミ・ヘラルド紙のコラムの中で自分の言い分を述べた。
「誰でも、たまには失格になることがある。だから、私はその出来事を忘れようとしたんだ」とハータックは語った。「私の馬は内側に大きく斜行していた。 ジョッキールームに戻った私は、次のレースのことを考え始めていた。そのとき、ジョンソンが近づいてきて私を非難し始めた。彼は、私の顔の前で指を振り、 俺を内柵の向こう側へ突き落とそうとしただろう、と言ったんだ」。
「私は彼にこう言った。“嘘をつくな。誰かを柵の向こう側に突き落とそうとしたことなんか、一度もない。それに、俺の顔の前で指を振るな!”。だが、彼 は指を振るのを止めなかった。それから2、3言葉を交わした後、私は彼に一発食らわした。殴ったのは申し訳ない、と思っているよ。気が動転していたんだ。 でも、失格になったから殴ったんじゃない。私をいつまでも非難していたからだ」。
ハータックは、アーキャロの批判については次のように述べた。「アーキャロは公式な声明を行なう前に事実を調査すべきだった。ベルモントパーク競馬場に いたアーキャロが、なぜ、私の騎乗停止について意見を言うことができるのか、私には分からない。彼が言えるのは、噂に基づいた意見だけだ。私は、彼は偉大 な騎手で偉大な男だと常に思っていた。だが、今は、私に言わせれば、彼は偉大な男ではなく単に偉大な騎手に過ぎない」。
そして、ハータックは、アーキャロには決して話しかけない、と決心したのだった。
1962年にケンタッキー州ルイビルのチャーチルダウンズ競馬場で行なわれていたダービーウィークにおいて、すでに引退していたアーキャロは、その言い 争いに終止符を打つための行動を起こした。全米競馬記者協会(National Turf Writers Association)の毎年恒例の夕食会の席上、アーキャロは、“つきに見放されている”ハータックへの非難をそろそろ止めるよう、記者たちに依頼し た。ハータックは、ハイアリーア競馬場での2つのレースでナスルーラ(Nasrullah)の牡駒に騎乗して敗れた後、ダービーの本命馬のライダン (Ridan)に騎乗することができなくなったのである。
だが、ダービーにおけるハータックのつきは落ちていなかった。オッズが8-1のディサイディッドリー(Decidedly)に騎乗して、見事な勝利を収めたのである。一方、ライダンはマヌエルイカザ(Manuel Ycaza)に次ぐ3着となり、惨敗を喫した。
そのダービーにおいて、アーキャロはテレビ放送のコメンテーターを務めていた。だが、いつもは冷静沈着なベテランであるアーキャロは、少し神経質になっ ていた。彼は、数百万人が見ているテレビ放送において、行動の予測がつかないハータックが自分を侮辱したらどうしよう、と考えていた。アーキャロは、番組 のホスト役を務めていたクリス・シェンケル(Chris Schenkel)に、ダービー後のインタビューを自分以外の人間にやらせるよう穏やかに提案した。
しかし、シェンケルは、インタビュアーの役割を続けるようアーキャロを説得した。その決定は、大喜びのハータックが、アーキャロにまるで昔からの親友に 対するような挨拶をしたことによって報われた。アーキャロがインタビュアーであっても、ハータックはテレビで放送されることを楽しんでいた。ハータック は、レースの分析においても優れた能力を発揮した。
それから数年後、アーキャロがフロリダを訪れ、再度エドウィン・ポープのインタビューを受けていたとき、確執が再び勃発した。ハータックはかつてハイア リーアパーク競馬場のキングだったが、1967年に開催された競馬の最初の12日間で騎乗したのはわずか2回(いずれも着外)に過ぎない、とアーキャロが 指摘したのである。
「彼に同情する気はない」とアーキャロは付け加えた。「ものごとは、回りまわって自分に帰ってくるものだ。彼は、何年にもわたって競馬を馬鹿にしてきた。そのつけが回ってきたんだよ。騎手が競馬を馬鹿にするなんて、私には理解できない」。
私がヘラルド紙に長い記事を書くため、アーキャロについてのコメントをハータックに求めたとき、ハータックは「アーキャロは、たったひとつだけ正しいことを言った。私に騎乗の機会がないことだ」と述べた。
その記事がヘラルド紙に掲載されると、数多くの手紙が寄せられた。その95%はハータックを支持するものであった。また、騎乗回数が増える結果となった。ハータックの古い友人であるケリー(T. J. Kelly)調教師も、彼に何度か騎乗を依頼した。
いつもそれほど好意的ではない同僚記者のリロイ・ジョリー(LeRoy Jolley)は、驚くようなお世辞を言った。「競馬記者が騎手を復活させるのを初めて見たよ」。
だが、ハータックの騎乗機会の増加は一時的で、結局、その年は660回の騎乗で勝利を収めたのは66回、獲得賞金は51万8,299ドル(約5,183 万円)に過ぎなかった。それは、14年間の中で最低の金額で、ラングがエージェントを務めていたころの年収200万ドル(約2億円)以上の金額からは程遠 い数字であった。
ハータックは、もはや一流の騎手ではなかった。だが、彼はルイビルでもう一回、勝利を収める機会を得た。1969年のケンタッキーダービーにおいて、フ ランク・マクマホン(Frank McMahon)氏所有の無敗のマジェスティックプリンス(Majestic Prince)に騎乗して、ロケビー・ステーブル(Rokeby Stable)所有のアーツアンドレターズ(Arts and Letters)に首差で勝利したのである。
ハータックが9回目のダービー参戦でダービーの最多勝利(5回)を記録する前の17年間は、アーキャロがその最多勝利の地位にいた。
マジェスティックプリンスはまた、ハータックの古くからの友人のジョン・ロングデン(John Longden)氏を、騎手兼任調教師としてダービーを制した初めての男にした。だが、プリークネスS(G1)でアーツアンドレターズに頭差で勝利し、違 反行為のクレームも乗り切ったマジェスティックプリンスの身体は、その激しい戦いによって疲労しきっていた。従って、ロングデン調教師はベルモント競馬場 の残るもう1つの三冠競走ベルモントS(G1)への出走を断念し、馬をカリフォルニアに戻すための飛行機を手配した。
それを知った競馬界は衝撃を受けた。だが、友人たちからのプレッシャーを受けると共に、クラシック競走に全勝したいという野望に突き動かされた馬主のマクマホン氏は、調教師の意見を無視し、馬をベルモントパーク競馬場に送った。
アーツアンドレターズは、最大のライバルの身体が衰えているのとは対照的に、ピムリコ競馬場での戦い(プリークネスS)の後に更にその強さを増し、メトリポリタンH(G1)で古馬を蹴散らして勝利を収めた。そして、それから8日後のベルモントSに出走することになった。
その年のベルモントSは、1頭の牡馬が力強く成長し、もう1頭の牡馬が傷付くというミスマッチのレースになった。ハータックがこのレースでもマジェス ティックプリンスに騎乗することになったのは少々驚きであったが、彼は次のように説明した。「この馬は、私がこれまで騎乗した馬の中で最良の馬だ。別の人 が騎乗するより、私が乗った方が怪我をする可能性が少なくなると思う」。
アーツアンドレターズは本命馬であったが、マジェスティックプリンスも驚くほど僅差の2番人気馬であった(6頭立てで、1.70-1ドルに対して1.30-1ドル)。アーツアンドレターズは、半マイル(時計は:51)および6ハロン(時計は1:16 1/5) において先頭集団に入っていたが、その後に抜け出し、2着のマジェスティックプリンスに5.5馬身の差をつけて勝利を収めた。マジェスティックプリンスか ら2馬身の差で3着に入ったのは、ダービーにおいて僅かな差で3着になったクレイボーン牧場(Claiborne)のダイク(Dike)である。
ベルモント競馬場のテレビ放送のコメンテーターを務めていたアーキャロは、当然のことながら、かたつむりのような遅いペースで騎乗したハータックを批判 した。それは、長年にわたる確執の中で、アーキャロが最後に行なった公的なコメントであった。ロングデン調教師はアーキャロに電話し、ハータックを不公平 に扱っていると伝えた。
ブラッドホース誌(Blood-Horse)の編集長であったケント・ホリングスワース(Kent Hollingsworth)は、ジョッキールームで騎手たちと話をし、彼らの大半がロングデンと同じ意見であることを認識した。
ハータックは、デイリーサン紙に自分の騎乗について説明し、次のように語った。「馬が最良の状態ではないことは分かっていた。早い時期にスピードを上げ るとペースが早くなり、馬が距離の長い追い込みを行なうことができなくなることも、分かっていた。追い込みを行なえるのは、せいぜい3ハロンだと踏んでた んだ。マジェスティックプリンスが2着に入ったのは、この馬の格とハートのたまものだと思う」。
ニックネーム:“バナナノーズ”“ザ・マスター” 出 生:オハイオ州シンシナティ 1916年2月19日 騎乗数:2万4,092 勝利数:4,779 収得賞金:3,003万9,543ドル(約30億395万円) 初勝利:1932年メキシコ・ティフアナ州のアグアカリエンテ競馬場にて 最終騎乗:1962年1月1日 オーストラリア 収得賞金によるリーディング獲得年:1940, 1942, 1948, 1950, 1952, 1955 ステークス勝利数:549勝
主な騎乗馬:Whirlaway, Citation, Hill Gail, Hill Prince, Nashua, Bold Ruler, 騎乗馬のなかで最も活躍した馬:Citation 競馬の殿堂入りを果たした年:1958年 没 年:1997年11月4日フロリダ州マイアミにて(享年81歳)
その他:騎手組合(Jockey’s Guild)を共同で設立。 |
出 生:ペンシルヴァニア州エデンスバーグ 1932年12月9日 騎乗数:2万1,535 勝利数:4,272 収得賞金:2,646万6,758ドル(約26億4,668万円) 初勝利:1952年10月14日ウォーターフォードパーク競馬場ニクルビー(Nickleby)に騎乗 最終騎乗:1980年香港 勝利数によるリーディング獲得年:1955、1956、1957、1960 収得賞金によるリーディング獲得年:1956、1957
主な騎乗馬:Kelso, Round Table, Northern Dancer, Tim Tam, Jewel’s Reward, 騎乗馬のなかで最も活躍した馬:Majestic Prince 競馬の殿堂入りを果たした年:1959年 没 年:2007年11月26日テキサス州フリーア近郊にて(享年74歳)
その他:年間収得賞金額が初めて300万ドル(約3億円)を超えた騎手(1957年)、 |
アーキャロ騎手(三冠競走騎乗) | ハータック騎手(三冠競走騎乗) | ||||
ケンタッキーダービー | ベルモントS | ケンタッキーダービー | |||
1935 | Nellie Flag | 1938 | Gentle Savage | 1956 | Fabius |
1938 | Lawrin | 1939 | Hash | 1957 | Iron Liege |
1941 | Whirlaway | 1940 | Corydon | 1959 | Easy Spur |
1942 | Devil Diver | 1941 | Whirlaway | 1960 | Venetian Way |
1944 | Stir Up | 1942 | Shut Out | 1962 | Decidedly |
1945 | Hoop Jr. | 1944 | Who Goes There | 1964 | Northern Dancer |
1946 | Lord Boswell | 1945 | Pavot | 1965 | Bold Lad |
1947 | Phalanx | 1946 | Hampdan | 1967 | Dr. Isby |
1948 | Citation | 1947 | Khyber Pass | 1969 | Majestic Price |
1949 | Olympia | 1948 | Citation | 1970 | George Lewis |
1950 | Hill Prince | 1949 | Palestinian | 1973 | Warbucks |
1951 | Battle Morn | 1950 | Hill Prince | 1974 | Sir Tristram(GB) |
1952 | Hill Gail | 1951 | Battlefield | プリークネスS | |
1953 | Correspondent | 1952 | One Count | 1954 | Ring King |
1954 | Goyamo | 1953 | Jamie K. | 1956 | Fablus |
1955 | Nashua | 1954 | Correlation | 1957 | Iron Liege |
1956 | Head Man | 1955 | Nashua | 1960 | Venetian Way |
1957 | Bold Ruler | 1956 | Jazz Age | 1962 | Decidedly |
1958 | Jewel’s Reward | 1957 | Bold Ruler | 1964 | Northern Dancer |
1959 | First Landing | 1958 | Nasco | 1967 | Barb’s Delight |
1961 | Sherluck | 1959 | Black Hills | 1969 | Majestic Prince |
プリークネスS | 1960 | Venetian Way | 1970 | Stop Time | |
1935 | Nellie Flag | 太字は優勝 | 1971 | Vegas Vic | |
1941 | Whirlaway | 1974 | J.R.’s Pet | ||
1942 | Devil Diver | ベルモントS | |||
1944 | Stir Up | 1960 | Celtic Ash | ||
1947 | Phalanx | 1961 | Dr. Miller | ||
1948 | Citation | 1962 | Decidedly | ||
1949 | Correspondent | 1964 | Northern Dancer | ||
1950 | Hill Prince | 1969 | Majestic Prince | ||
1951 | Bold | 1972 | Cloudy Dawn | ||
1952 | One Count | 太字は優勝 | |||
1953 | Jamie K. | ||||
1955 | Nashua | ||||
1957 | Bold Ruler | ||||
1959 | First Landing |
By Russ Harris
(1ドル=約100円)
[The Blood-Horse 2010年5月1日「The Freud」]