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2012年07月20日  - No.7 - 4

順風満帆ではないゴドルフィン(ドバイ 前編)【その他】


 モハメド殿下(Sheikh Mohammed)がはっきりと予感していたとしても、ナドアルシバ競馬場に1992年12月24日、ジョン・ゴスデン(John Gosden)調教師の管理馬だったカットウォーター(Cutwater)がこの地に姿を現したとき、私たちには将来何が起こるか全く分からなかった。英国で2戦未勝利だったこのビーマイゲスト(Be My Guest)産駒は、中東でもほとんど観光客のいないモハメド殿下の本拠地ドバイの小ぢんまりとした新設競馬場で、初出走初勝利を果たした。

 有為転変。それから20年が経ち、ドバイは経済繁栄した大都市となり、世界地図上のスポーツ、レジャーおよびビジネスの中心地となっている。カットウォーターが設立のきっかけを作ったドバイ拠点のゴドルフィンは、競馬史上最も国際的な厩舎として競馬の世界を変えた。

 モハメド殿下は当初からゴドルフィンの前途はグローバルなものでなければならいと主張し、これはどれだけ手法が進歩しても決して変化しないものであった。

 ゴドルフィンのレーシングマネージャーで実質的にはCEOであるサイモン・クリスフォード(Simon Crisford)氏は、「ゴドルフィンはドバイ拠点の国際的な厩舎であり続けています。そして価値観は常に同じです。しかし、ゴドルフィンは大いに変貌しました。モハメド殿下が唯一貫いていることは、変化を求めることです。ゴドルフィンは設立時から固く結束した競馬事業体ですが、絶えず発展し変化を遂げています」と語った。

 モハメド殿下は、独自の手法で事を成し遂げ、他の誰でもなく自分に相応しいものとするためにゴドルフィンを設立した。殿下は英国において1985年〜1993年の9年間のうち8年最優秀馬主となったが(受賞を逃した1年は弟のハムダン殿下が最優秀馬主となった)、もはやそれだけでは物足りなくなった。そしてゴドルフィンの設立を思いつき、競馬の世界におけるドバイの大きな発展が考えの中心となった。ゴドルフィンの立役者である殿下の方針はすべて、世界中の最も権威あるレースで所有馬を優勝させるという決意を強調していたはずである。

 若干のずれがあることは否定できないが、基本的な考え方の多くの点でゴドルフィンの計画は成功であると思われる。ゴドルフィンが、バランシーン(Balanchine)、ラムタラ(Lammtarra)、デイラミ(Daylami)、スウェイン(Swain)、ホーリング(Halling)、ファンタスティックライト(Fantastic Light)、サキー(Sakhee)およびモハメド殿下の個人的思い入れの強かったドバイミレニアム(Dubai Millennium)のような最高の馬を手掛けたことからも、それは決定的である。

 ウェブサイト上で誇らしげに「ゴドルフィンはドバイの真の代表者である」と表明しているように、ゴドルフィンは、その国際主義によってドバイの大きな願望を具現している。ダーモット・ウェルド(Darmot Weld)調教師、クライヴ・ブリテン(Clive Brittain)調教師、ルカ・クマーニ(Luca Cumani)調教師と比べれば、ゴドルフィンは決して大陸境界線の先を常に思い描く最初の厩舎ではないが、このような徹底的にグローバルな競馬事業体はかつて存在したことがなかった。現代の欧州の平地シーズンは、特に最高レベルのレース独善的で時代錯誤の垣根を作ってしまっている。ゴドルフィンは、モハメド殿下がドバイカーニバルを開催することで加速させた発展に乗じて、モンテロッソ(Monterosso)がゴドルフィンの6頭目のドバイワールドカップ勝馬となっている。

 これまでにこの戦略をとった例としては、おそらく、日本、イタリアおよびフランスのトップレベルの競走でそれぞれゴドルフィンのハートレイク(Heart Lake 安田記念)、フラッグバード(Flagbird 伊共和国大統領賞)およびヴェットーリ(Vettori 仏2000ギニー)が優勝した1995年5月が最初である。2002年の1年間だけでも、ドバイワールドカップ勝馬ストリートクライ(Street Cry)、凱旋門賞勝馬マリエンバード(Marienbard)および数々のビッグレースを制したグランデラ(Grandera)などを送り込み、8ヵ国以上でトップレベルの競走を優勝する偉業を達成していた。最近の目覚ましい功績は、米国でG1競走9勝を果たし2009年最優秀馬主に選ばれエクリプス賞を受賞したことであるが、このことはほとんど欧州では話題にならなかった。

 一般の競馬ファンがゴドルフィンの精神を評価する理由は大いにある。閉ざされていることの多い競馬界において、最高レベルでありながらファンへのサービス精神が旺盛な厩舎はこれまでにあっただろうか?マーク・ジョンストン(Mark Johnston)調教師は“常に挑戦し続ける”自身のモットーに誇りを持っており、ゴドルフィンにとってもそれは言うまでもないが、雄弁なクリスフォード氏や調教師が直接コメントしない場合でも、充実したウェブサイトの毎日の最新ニュースを通じてすべてが迅速にファンに伝えられている。ゴドルフィンは競馬ファンに対していつもオープンであり、身近な存在である。それは現場でも同じであり、彼らは英国年間厩舎・厩舎スタッフ賞のスポンサーでもある。

 ゴドルフィンはまた、優良馬を3歳シーズン終了後に引退させる評判の良くない傾向が主流となる前からこれに抵抗し、古馬となっても現役生活を続けさせている。それに関連してアスコットゴールドカップ(G1 約4000m)やセントレジャー(G1約3000 m)でカイフタラ(Kayf Tara)やクラシッククリッシェイ(Classic Cliche)を強くサポートして、停滞している長距離部門復活のためにも大いに尽力した。

 しかし、これらの建設的な対応にも拘わらず、ゴドルフィンがレースに敗北すると観客の中には「ざまを見ろ」というような意地の悪い気持ちを持つ者もいたようだ。最も輝かしい時期においてさえ、ゴドルフィンに対する批判は絶えることがなかった。今年はドバイでの快挙により1,500万ドル(約12億円)の収得賞金を獲得しているものの、ギニー競走では振るわず、ダンテS(G2)でも散々であった英国平地シーズンでの出だしの悪さにより、鋭い批判に晒された。

 それはいつものことである。ゴドルフィン形成期における尊敬の念も、モハメド殿下の底なしの財布により買い取った成功に過ぎない、あるいはもっとひどい言い方では他の調教師から馬を横取りしたものであるなどという主張が広まる中で、嫌々ながらのものであることも多かった。現在の位置づけではおそらくマンチェスターシティーFCに近いのだろうが、草創期のゴドルフィンは競馬界のマンチェスターユナイテッドであった。当時クリスフォード氏は、ニューマーケットのいくつかの厩舎において死神として知られていて、同氏が戸口に現れることはしばしば厩舎の前途有望なスター馬との別れを意味していた。

 ゴドルフィンに2歳馬がいなかったことを考えれば、モハメド殿下の初期の計画においてこのような移籍は不可欠であった。モハメド殿下は何度も最優秀馬主となったが、直接実務に携わる馬主として、古いやり方を実行し続けることを望んでいなかった。自らの力で栄誉を勝ち取ったホースマンとして、馬主を無視したり意見を聞かない調教師がいることは面白くなかった。

 モハメド殿下は自身で舵取りを行うことを望み、優良馬を手元に置いてペルシャ湾で冬を過ごさせることにより、慣習と世間一般の通念を徹底的に無視して革新的な一歩を踏み出す準備を進めていた。だがゴドルフィン設立にはやや欲求不満があったようで、この措置は、むしろ将来の展望を見据えて境界を広げる野心から取られたものである。

 今日巨大企業となったゴドルフィンは、形成期の厳選された競馬事業体とは大きく異なる団体である。バランシーンが1994年の英オークス(G1)を制してゴドルフィン初のG1勝馬となった時、同馬はわずか60頭の選抜チームの1頭であった。入厩馬すべてが重賞競走を勝つ可能性があると考えられていたモールトン厩舎(Moulton Paddocks)は、実際的な面で、その規模から入厩馬が多くなり過ぎないようにしなければならなかった。ゴドルフィンは、目標を設定した時には寸分の違いもない正確さでそれを達成し、初期の勝率は驚異的なものであった。

 この鮮やかな目標の絞り込みは、ジョン・ゴスデン調教師がマントンに移動しゴドルフィンがスタンリーハウス(Stanley House)を購買してニューマーケットの管理馬頭数が増加したときに変化した。ゴドルフィンの所有馬は増加し、現在では350頭以上の現役馬が、それぞれドバイとニューマーケットを拠点とするサイード・ビン・スルール(Saeed Bin Suroor)調教師およびマフムード・アル・ザルーニ(Mahmood Al Zarooni)調教師を筆頭とする多くの調教師の管理下に置かれている。それらに加えて、フランスとアメリカで現役馬を有しており、フランスではベージュ色の勝負服を背負う馬をアンドレ・ファーブル(Andre Fabre)調教師に託している。またアメリカでは、モハメド殿下の息子ハムダン殿下(Sheikh Hamdan)の緑と赤の勝負服を背負う馬をマーク・ジョンストン(Mark Johnston)調教師に託している。ミカエル・バルザローナ(Mickael Barzalona)騎手がフランキー・デットーリ(Frankie Dettori)騎手の後継者として訓練されれば、長期的にはハムダン殿下(叔父であるハムダン殿下と混同しないように)が父であるモハメド殿下の後を継いでいく人物になる可能性がある。

 ゴドルフィンの支持者は、ゴドルフィン設立からの20年間が順風満帆ではなかったことを認めるだろう。一番巨額の損失を招いた過ちは、フランスで閉場したエヴリー競馬場において、デヴィッド・ローダー(David Loder)調教師が行った束の間の調教活動であった。悲惨な結果に終わった移転以前にドバイミレニアム(Dubai Millennium)のような優良馬を育て上げたニューマーケットでの調教活動のほうが順調であったために、同調教師は2年もせずにニューマーケットに舞い戻ることとなった。

[後編は次号(8号)に掲載]

By Peter Thomas

[Racing Post 2012年5月24日「Pioneering force sailing into choppier waters」]


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