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海外競馬情報
2012年09月20日  - No.9 - 3

英国競馬はこれまで大きく変革されたが、更なる改革は続く(イギリス)【その他】


 英国競馬が月曜日から土曜日まで芝レースだけで開催され、また平地シーズンが3月のリンカーンSから11月のノベンバーHまで、障害シーズンが8月初めから5月終わりまでと定められ、8月末に向かって日照時間が短くなると薄暮開催が終了していた時代を想像してみてほしい。

 この当時競走前日の出馬投票がやっと導入されたが、騎手名は通信協会(Press Association)の記者の骨の折れる確認作業のお蔭でようやく99%の正確さで発表されていた。近い関係者以外は、ブリンカー、メンコが使用されることは、馬がパドックに現れるまで分からなかった(チークピーシーズはまだ開発されていなかった)。

 平地競走において、馬番は馬券購入者には明かされず、競走当日に検量委員によって決定されていた。馬場いっぱいに伸ばされた幅広い網状のゴムテープのバリヤーが前方約45度に跳ね上げられることによって、出走馬はスタートを切っていた。

 競馬そのものは、ほぼ男性ばかりがメンバーでジョッキークラブと呼ばれていたプライベートクラブの理事と称される裕福な人々によって、彼らの利益となるよう運営、規制、かつ管理されていた。ジョッキークラブは、アマチュア騎手として経験を積んだわずかな人々を除いては騎手をメンバーにせず、功労者名簿からメンバーを選出していた。

 以上の過去の時代の話は、少なくとも100年前のものであるに違いないと思われるかもしれない。

 ところが実際には、ドンカスター出身の18歳の私がロンドンで6ヵ月を過ごした後に公務員の安泰なキャリアを捨て出身地に戻り、タイムフォーム紙(Timeform)の競馬ジャーナリズムの現場で働き始めた1964年6月の話である。

 このときマンチェスター競馬場は前年の11月に既に閉場していて、続いてリンカーン競馬場がその1964年の末に閉場した。その間に、真夏の英国で大雨が降ったことでロイヤルアスコット開催が2日間中止となっていた。しかし時間を早送りをして、私がレーシングポスト紙の創刊に関わる幸運に預かった1986年4月15日までには、どのような変化があったのだろうか?

 競走前日の馬番決定をはじめより多くの情報が、賭事客の手に入るようになった。ヨーロッパ・パターン競走(European Pattern)国際格付け(International Classification)が導入され、英国やアイルランド以外の国々の競馬がより理解されるようになった。そしてマクツーム一族(Maktoum family)が、旧体制のオーナーブリーダーに挑戦し賞金獲得を目指した。

 しかし芝コースはなお唯一の競走用馬場であり、平地シーズンは3月にドンカスター競馬場で開幕して11月初めに同競馬場で閉幕し、ジョッキークラブが引き続きすべてを牛耳っていた。

 その後26年経った今日、英国で行われている競馬および賭事の運営方法が過去のどの時期よりも大きく広範囲に変革された、ということについては誰も疑うことはできない。

 新世代の競馬ファンと賭事客は成長してきており、行政上および実践上の様々な激変を経験してきた。こうした激変は、彼らの父親の時代には競馬の革新への熱意をいかに強く持っていたとしてもほとんど可能とは思えなかっただろうし、また彼らの祖父の時代には全く考えもしなかっただろう。

 冬の障害レースの悪天候による中止に伴う開催減という事態への対処を模索し、日曜商取引規制法が緩和されるという機会をとらえたジョッキークラブ理事の先見の明のお蔭で、競馬は1年中毎日開催されるようになった。

 人工馬場での競馬が最初に施行されたのは、1989年10月のリングフィールド競馬場でであった。また夜間照明が初めて灯されたのは、1994年1月のウルヴァーハンプトン競馬場であり、馬券を販売する日曜開催は1995年に開始された。

 それぞれの改革は、顧客主導の競馬場および賭事を渇望しているブックメーカーの需要を満たすための競馬開催日数の増加に寄与した。批判する評論家たちがどのようなことを言おうと、あらゆるライバルスポーツやインターネット賭事が押し寄せる中で、英国競馬は拡大がなければ現状以上に深く沈み込んでいたことだろう。

 おそらく意外なことに、競馬に変化を与える主要な原動力はジョッキークラブ内部からもたらされたものだろう。ジョッキークラブは18世紀の活発な時期以来競馬界において唯一不変であったものの、より平等主義の時代において自選の寡頭政治に固執していることが冷笑の対象となっていた。

 しかし、ジョッキークラブの見識ある上級理事ハーティントン(Hartington)氏[後のデヴォンシャー公爵(Duke of Devonshire)]は改革の必要性を認識し、英国競馬界を代表する統轄機関を通じて現代の需要に応える手段を具体化した。

 ハーティントン氏の存在およびジョッキークラブの奥の院のサポートを得る同氏の力がなければ、1993年6月に英国競馬公社(British Horseracing Board: BHB)が競馬統轄を引き継ぎ、ジョッキークラブにはまず取締と公正確保を行わせ、その後商業および慈善活動にうまく専念させることとなった歴史がつくられることはなかっただろう。

 14年間の形成期のあと、BHBのピーター・サヴィル(Peter Savill)会長が賭事産業と一緒となり、BHBの持っているデータベースを活用した資金調達の仕組みを構築しようとする企ては、ウィリアムヒル社(William Hill)の訴えを欧州裁判所が受け入れたことにより失敗したが、その代わりそれ以上の大幅な変更がなされることとなった。

 近代化の一層の促進に躍起になっていた労働党の考え方もあり、“賦課金に対する法的義務による競馬との直接的な関わりから身を引く”という大胆だが実現されていないことの達成のため、BHBは、競馬運営と取締を1つの統轄機関である英国競馬統轄機構(British Horseracing Authority: BHA)に統合された。

 競馬界の商業的意図は、ホースマンと競馬場が50対50で所有している共同事業体のレーシングエンタープライズ社(Racing Enterprises Ltd.: REL)に受け継がれ、同社は今までのところ、長く競馬界にいる関係者に、新規顧客や新たな試みの実践を常に模索するよう促す競馬変革計画(Racing For Change)で最も知られている。

 その一方、競馬賭事賦課公社(Levy Board:賦課公社)は競馬産業との関係の見直しを続け、ユナイテッド競馬場社(United Racecourses)、競馬場技術サービス社(Racecourse Technical Services 後のレーステック社)、HFL運動科学研究所(Horseracing Forensic Laboratory Sports Science)およびナショナルスタッド(National Stud)を売却してスリム化された。

 依然として中心的な資金調達団体である賦課公社は頑張り続けており、さまざまな形で閉鎖の脅威に晒されたが、公社にとっても受入れ可能で適切な資金調達の別の仕組みを見い出すための政府が後押しする2つの主要案が頓挫したため、一時的に救済されている。

 そして将来に向けて、競馬界は、見るスポーツとしての大衆性にこだわり、2つの衛星テレビチャンネルを支援しているが、BBCにおいて競馬中継は消えようとしており、賭事市場では人気がなくなりつつあるなど変化は続いている。

 BHAは新CEOポール・ビター(Paul Bittar)氏の下で、運営および取締を行う機関にすぎないという前CEOニック・カワード(Nic Coward)氏のスタンスに対し、商業的な影響力をやや回復しつつある。

 しかし競馬の最も強力な勢力基盤は依然として、RELのパートナーである競馬場とホースマングループの間で共有されている可能性が最も高い。そして両者は、最低賞金額をめぐる辛辣な議論を受けてBHAの性格上の問題が解決するまで不安定な関係のままかもしれない。

 ルーベン兄弟(Reuben Brothers)ノーザンレーシング社(Northern Racing)アリナレジャー社(Arena Leisure)が合併したことで生まれた2番目に大きな競馬場グループの所有するヘレフォード競馬場とフォークストン競馬場が、閉場の危機に晒されているという7月に話題となったニュースは、お互いをともに必要としている両団体間の緊張を和らげるのに何の効果もなかった。

 トート社(Tote)はやっとのことで政府の足かせから逃れることができた。民間ブックメーカーの手に渡され、さまざまな競馬関係者の反感を買ったが、外部から見れば何の驚きもない。

 しかし賦課金制度は、消滅の危機に瀕したままである。というのも、国会の連立政権自体が、古い問題の解決と、競馬界の将来に影響を与える近代的な資金調達枠組みにおける海外賭事やベッティング・エクスチェンジ賭事といった新しい問題の解決に忙殺されているからである。

 したがって、車輪は回転し続けているが、ある意味でそれは前進し続けていると言えるのだろうか?

 競馬界がブックメーカーから直接的な支払いを初めて受け取った3年後の1964年に立ち返ってみると、ラフズガイド(Ruff’s Guide)のレン・スコット(Len Scott)氏の言葉に次のようなものがあった。「権威あるわずかなレースの賞金額が大きく増加しても、賦課公社が英国競馬界の期待するサービスを提供したことにはならない。必要なことは、賦課金というバターをもう少し薄く広く塗ることである」。

 現在、「レースが多すぎ、賞金が少なすぎる」という叫びが、英国競馬界に従事する小さい事業体全体にこだましている。今後の最善策のための合意は相変わらず遠いように思われる。

By Howard Wright

[Racing Post 2012年8月8日「So much has changed but the quest to find agreement on the best way forward goes on」]


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