エリザベス女王が行なってきたロイヤルスタッドの改革(イギリス)【その他】
エリザベス二世女王陛下がサラブレッドを最重要視する情熱は、自身の即位60周年を記念する4日間の国民の祝日を英ダービーデーの6月2日から始めさせるほどである。
エリザベス女王は戦時中の1940年に、代替場のニューマーケット競馬場で開催された英ダービーを初めて観戦して以来、このクラシック競走観戦を欠かしたことはほとんどない。女王に即位した1953年には、戴冠式の4日後の記念すべきダービーにおいて、王室独特の勝負服のオリオール(Aureole)は2着となった。
ダービーで王室の馬が勝ったことはなく、今年は出走馬すらなかったが、ロイヤルアスコット開催では話が違う。今年のロイヤルアスコット開催4日目にエスティメイト(Estimate)がクイーンズヴァーズ(G3)を優勝した時、観客は歓喜し空に向かって帽子を投げた。
エスティメイトのこの勝利は王室の馬のロイヤルアスコット開催での4年ぶりの快挙であり、女王が在位してから21頭目の勝馬となった。この牝馬エスティメイトは、バリードイル勢(Ballydoyle)のエイダン・オブライエン(Aidan O’Brien)調教師が管理する2着馬アセンス(Athens)に5馬身差をつけたことからも、他の9頭の馬とはあまりにも実力差があった。
エスティメイト(父:モンズーン 母:エバジヤ 母父:ダルシャーン)が3200mの競走に十分なスタミナを持っていることは、何ら驚くことではない。この3歳牝馬は、アガ・カーン殿下が発展させた優れた牝系からでており、半姉のなかには、アガ・カーン殿下の勝負服を背負って1999年アスコットゴールドカップ(G1 4023m)を制したエンゼリ(Enzeli)がいる。王室の勝負服を背負ったエスティメイトのこの勝利は、エリザベス女王が近年、生産・競走アドバイザーのジョン・ウォレン(John Warren)氏と示し合わせてロイヤルスタッド(Royal Studs)にもたらした多くの抜本的な改革が背景にあることを示している。
ロイヤルスタッドは事実として、その長く輝かしい歴史の中で結果を出せない時期を耐え抜いてきた。牧場運営の方向転換は2000年半ばに一連の繁殖牝馬の徹底的な見直しから開始され、しばらくしてから成果があらわれた。このロイヤルスタッドの活性化は女王の多くの業務と調和させながら非常に静かに推し進められたため、ダイヤモンドジュビリーの今年、王室への注目が高まったことでやっと人々の目に留まるようになった。
ウォレン氏は次のように説明した。「どの馬の生産者も行っているように、1頭の優良牝馬から開始し、その娘を手元に置き、その後そのまた娘を繋養します。突然、血が薄くなり、始めの優良牝馬の質はどんどん弱まっていきます。しかし、女王陛下は我を張るような方ではありませんので、いつもこうおっしゃいました。“分かりました。そのような状況であるならば、早速X、Y、Zを購買しましょう”。これは非常に順序だった、かつ計算された段階的なプロセスでした。私たちは何事も性急に進めたわけではありません」。
徹底的調査は2005年に開始され、その後アガ・カーン・スタッド(Aga Khan Studs)から12歳の繁殖牝馬ダラルベイダ(Daralbayda)を購買した。ミネルヴ賞(G3)勝馬ダラリンシャ(Daralinsha)を母とするダラルベイダの娘ダリンスカ(Darinska)は、その後フランス1000ギニー(G1)勝馬ダルジナ(Darjina)を生むことになる。
ウォレン氏は当時を思い返して次のように語った。「女王陛下は話し合いにおいて、それまでロイヤルスタッドが所有したことのないアガ・カーン・スタッドの血統をどれだけ気に入っているかをたびたび口にされました」。
「ダラルベイダは高齢になりつつあったので、彼女の娘を生産することが目標となりました」。
このような経緯で、ダラルベイダの娘で2009年にサウスウェル競馬場で勝鞍を挙げたサリーフォース(Sally Forth 父:ドバイデスティネーション)は、現在もロイヤルスタッドで繋養されている。
ダラルベイダ獲得後も厳選された購買が続けられ、2006年にはタタソールズ社(Tattersalls)の繁殖牝馬セールで、ボニードゥーン(Bonnie Doon)が購買された。ボニードゥーンの母馬でG2勝馬のプロスコナ(Proskona)は、いずれもG1を制しているボスラシャム(Bosra Sham)、ヘクタープロテクター(Hector Protector)およびシャンハイ(Shanghai)の母馬コルヴェヤ(Korveya)の半姉である。
エリザベス女王はその後の2年間で、3頭の1歳牝馬と1頭の繁殖牝馬を購買し、それらはすべて賞賛すべき血統であった。そして同様の購買を継続し、昨年の11月にチェリーヒルトンS(G2)とアルバニーS(G3)の勝馬の3歳牝馬メモリー(Memory)を個人的に購買した。
2005年以来、8頭の良血牝馬がロイヤルスタッド入りしたが、それは徹底した見直しの一つの結果に過ぎない。それよりもむしろ最初にダラルベイダを手に入れたことが、王室の生産プログラムに長期にわたる最も重要な影響力を築いたのかもしれない。というのも、この購買が、アガ・カーン殿下がエリザベス女王に80歳の誕生祝を贈るアイデアに繋がったからである。
ウォレン氏は、「アガ・カーン殿下は私たちに、女王陛下がアガ・カーン・スタッドのいくつかの血統にアクセスできる協定を結べるようにしてくださいました。関係者全員の間で持たれた話合いの後、女王陛下の牝馬6頭を種牡馬と交配させることについて合意がなされました」と語った。
そして、「生産馬が、牝であれば女王陛下がその仔馬を引き取り産駒登録料を支払い、牡であればアガ・カーン殿下がその仔馬を手元に置き、母馬は再び交配する仕組みです」と説明した。
この協定はエリザベス女王が6頭の繁殖牝馬すべてから牝の仔馬を手に入れるまで続き、現在2歳でニューマーケットのマイケル・ベル(Michael Bell)厩舎に預託されているダリーフォー(Dalliefour 父:ケープクロス、母:ダリヤナ、母父:カドージェネルー)が生まれた2010年に終了した。
アガ・カーン殿下がエリザベス女王の80歳の誕生祝として贈った繁殖牝馬の牝駒 | |||
2008年産 |
セットゥミュージック (Set to Musicステークス勝馬) |
父:デインヒルダンサー | 母:ザラバヤ(Zarabaya) |
母父:ドヨーン(Doyoun) | |||
2008年産 |
キーポイント (Key Point未出走) |
父:ガリレオ | 母:カランバ(Kalamba) |
母父:グリーンダンサー(Green Dancer) | |||
2008年産 |
スターヴァリュー (Star Value未出走) |
父:デインヒルダンサー | 母:シェマカ(Shemaka) |
母父:ニシャプール(Nishapour) | |||
2009年産 |
エスティメイト (Estimate G3勝馬) |
父:モンズーン | 母:エバジヤ(Ebaziya) |
母父:ダルシャーン(Darshaan) | |||
2009年産 |
シークエンス (Sequence勝馬) |
父:セルカーク | 母:シンタラ(Shinntara) |
母父:ラシュカリ(Lashkari) | |||
2010年産 |
ダリーフォー (Dalliefour未出走) |
父:ケープクロス | 母:ダリヤナ(Daliyana) |
母父:カドージェネルー(Cadeaux Genereux) |
セリで獲得した繁殖牝馬とともに、これらの牝馬は将来ロイヤルスタッドを成功に導く重要な構成要素である。これは、エリザベス女王の生涯にわたるサラブレッドに対する情熱の集大成である。80歳代半ばである女王は、言うまでもなく喜びを持って、国庫ではなくすべて個人収入から投資してきた。
しかしそれだけではない。ロイヤルスタッドは2010年にこれとは別に、カリド・アブドゥラ殿下(Prince Khalid Abdullah)のジャドモント牧場(Juddmonte Farms)との間で双方の2頭の繁殖牝馬が関わる生産交換プログラムを開始した。
ウォレン氏は、「女王陛下は3頭の素晴らしい繁殖牝馬を所有していて、これらすべては英オークス(G1)の2着馬フライトオブファンシー(Flight of Fancy 父:サドラーズウェルズ、母ファントムゴールド、母父:マキャベリアン)の全姉妹です。これらのうち2頭を売却するのではなく、アブドゥラ殿下の繁殖牝馬と交換することを決定しました」と語った。
2年間で、アブドゥラ殿下はこの借り受けたウェルヒドゥン(Well Hidden)とハイポテヌーズ(Hypoteneuse)から生産する一方、エリザベス女王はファーショアーズ(Far Shores デインヒルの半妹)とファイブフィールズ(Five Fields セニュアの半妹)から生産した。この交換プログラムの可能性は興味深い。昨年ファイブフィールズは牝馬ファイアリーサンセット(Fiery Sunset 父:ガリレオ)を出産し、この牝馬は最終的に、ノーフォークにあるロイヤルスタッドの牝馬に仲間入りすることとなるだろう。
また言うまでもなく、モハメド殿下(Sheikh Mohammed)からエリザベス女王に贈られたお返しのうちの1頭カールトンハウス(Carlton House)は、休み明けの後、2011年英ダービー(G1)でほとんど差のない3着であった。
カールトンハウスは、2010年にエリザベス女王がドバイレーシングカーニバル出走のためにとハイランドグレン(Highland Glen)をモハメド殿下に“寄贈”したことをうけて、お返しに贈られた4頭の2歳未出走馬のうちの1頭であった。また同時に贈られたアバージェルディ(Abergeldie)とユニバース(Universe)の2頭の良血牝馬は、その後ロイヤルスタッドの繁殖牝馬に仲間入りした。
このせん馬ハイランドグレンは発馬機を嫌がる傾向があったため無料で譲られたが、同馬はドバイ移籍後初戦のインサイドアウトHでは発馬機で騒ぐことなく、やすやすと優勝した。
これらの追加と購買により、現在ロイヤルスタッドには、エリザベス女王が長い在位期間中に所有した数と同じぐらい多くの牝馬が繋養されている。エリザベス女王の2012年スタッドブックには31頭の繁殖牝馬がおり、さらに障害競走馬生産に転向した5頭がいる。
また、多くの古い血統が一掃された。クラシック競走2勝でロイヤルスタッドの1980年代の頼みの綱であったハイクレア(Highclere 父:クイーンズハッサー 母:ハイライト 母父:ボーリアリス)の系統は、この繁殖牝馬31頭のうちたった3頭だけである。
ハイクレアは1974年の英1000ギニー(G1)と仏オークス(G1)で記憶に残る勝利をもたらした。同馬が初期に出産した仔の中には、プリンスオブウェールズS(G2)の勝馬ミルフォード(Milford)、同レースとフーヴァーフィリーズマイル(G3)を制したハイトオブファッション(Height of Fashion)がいた。
しかし、ハイトオブファッションとその3/4姉であるバーグクレア(Burghclere)は2頭とも売却され、その後新しい馬主のもとで目覚ましい活躍をする。バーグクレアは英オークスの2着馬ウィンドインハーヘア(Wind in Her Hair)を出産し、この馬は後に日本のチャンピオン馬となるディープインパクトを生むこととなる。しかし、ハイトオブファッションはさらに健闘した。
ハムダン殿下(Sheikh Hamdan)のシャドウェル牧場(Shadwell Farms)で繋養され、ハイトオブファッションは多くの秀でた競走馬を送り出した。チャンピオン馬ナシュワン(Nashwan)をはじめ、アルワスミ(Alwasmi)、ネイエフ(Nayef)およびアンフワイン(Unfuwain)の重賞勝馬である。
さらにハイトオブファッションの牝駒は、親譲りの優れた繁殖牝馬となった。自身もステークス勝馬であるサライール(Sarayir)は、クラシック競走のヒロインとなるガナーティ(Ghanaati)を生み、バシャヤー(Bashayer)はBCフィリー&メアターフ(G1)の勝馬でエクリプス賞を受賞したラフドゥード(Lahudood)の祖母となった。
ハイトオブファッションが送り出した傑出馬はすべて米国拠点の種牡馬を父としているとは言うものの、ロイヤルスタッドにとって同馬の喪失はかなり大きかった。しかし同馬は王室の牝馬の群れの中に留まっていれば、ノーザンダンサー(Northern Dancer)、ダンジグ(Danzig)およびミスタープロスペクター(Mr. Prospector)などと交配することは決してなかっただろう。
また、エリザベス女王がハイトオブファッションの喪失を埋め合わせるために行った奮闘は、あまり幸運をもたらすことはなかった。エリザベス女王は他の繁殖牝馬の中でも、ハイトオブファッションの母馬であるハイクレアをケンタッキーに送り、その良い血統を複製しようとして、ナシュワンの父ブラッシンググルーム(Blushing Groom)と交配させた。しかし残念なことに、生まれたのは牡駒であった。
ケンタッキーに繋養されている種牡馬との他の交配もまた、効果が無かった。そして言うまでもなく、最も優秀な繁殖牝馬の数頭をケンタッキーに繋養することによって、エリザベス女王は生まれたばかりの仔馬の最初の数ヵ月を見ることができなかった。サラブレッド生産におけるこの時期の仔馬は、女王に数十年にわたって大きな喜びを与えてきたものであり、他のすべての情熱的な生産者のように仔馬と定期的に接触することを恋しがった。
ハイトオブファッションの悲しい物語は、エリザベス女王の祖父ジョージ5世が1934年にハイトオブファッションの4代前の牝馬であるフェオラ(Feola)を3000ギニーで購買して以来、ロイヤルスタッドが形成してきた系統の牝馬を売却して悔やむ最初の例ではなかった。
フェオラの牝馬ナイツドーター(Knight’s Daughter)は、1951年にアーサー・“ブル”・ハンコック(Arthur ‘‘Bull’’ Hancock)氏によって2500ギニーで落札され、ロイヤルスタッドを離れた。ナイツドーターは間もなく伝説的な芝馬ラウンドテーブル(Round Table)を生産した。ラウンドテーブルはクレイボーンファーム(Claiborne Farm)で繋養され、1972年に最優秀種牡馬となった。そして、フェオラの系統の子孫は南米で多くのチャンピオンをもたらした。
ロイヤルスタッドはハイトオブファッションの喪失から立ち直れていない。しかし、ロイヤルスタッドは他の生産者には当てはまらない制約の中で運営されており、その緩和が必要である。
1971年にエリザベス女王のサラブレッドとエリザベス皇太后が所有する障害競走馬は、政治的緊張が高まっていたアイルランドから慎重に移された。当時は北アイルランド問題に悩まされている国に王室の馬を置いておくことは危険すぎると考えられた。
1983年に発生したシャーガー(Shergar)の誘拐によって、残酷にもこの危険性が浮き彫りになり、ロイヤルスタッドは、アイルランドから撤退した結果苦境に立たされることになった。なぜなら、アイルランドはその後、欧州における種牡馬分野を支配することになったからだ。
アイルランドの種牡馬へのアクセスなしで、サラブレッド生産業が繁栄する可能性はないだろう。ロイヤルスタッドは40年にわたりこの風潮に逆行したことで、王室の競馬の三角旗をなびかせるための努力は大いに阻まれた。
義理の父親カーナーヴォン卿(Lord Carnarvon)がこの時期にエリザベス女王のレーシングマネージャーを務めていたウォレン氏は、「女王陛下は非常に不満を感じられていたようです。チャンスに恵まれなかったために、ロイヤルスタッドは苦労しました」と回顧した。またこのことにより、エリザベス女王は繁殖牝馬への投資を中断せざるを得なかった。
そしてウォレン氏は次のように続けた。「その当時、最高の種牡馬はすべて英国を去りました。ケンタッキーに送らなければ、優秀な繁殖牝馬に交配させる機会は非常に限られていました。しかし女王陛下は馬が近くにいることを好まれます。繁殖牝馬を発展させるという点ではやや犠牲を払うことになったかもしれませんが、女王陛下は仔馬のすべての成長過程を見ることが大好きなのです。それは彼女の趣味であり、ビジネスではないのです」。
幸いにも、この状況は変化した。エリザベス女王は繁殖牝馬をアイルランドの種牡馬のもとに送ることを再開し、その結果王室の繁殖牝馬集団を発展させようとする意気込みは高まっていった。
ウォレン氏は次のように証言した。「私たちは特に祖父がデインヒルという理由でメモリーを購買しました。そして同馬をクールモア牧場(Coolmore)に繋養されているガリレオと交配させます。結果を見なければわかりませんが、繁殖牝馬集団の再構築によって、うまくいけばもう少しで女王陛下は、全ての牧場が喉から手の出るほど欲しがる大当たりの繁殖牝馬を創ることになると、私は感じています」。
このことは、エリザベス女王が英国競馬のパトロンであることがいかに幸運かがわかる人々の期待に違いない。高齢にもかかわらず、エリザベス女王は、長い目でロイヤルスタッドに役立つこととなる王室馬の血統向上に尽力してきた。
ウォレン氏は、「女王陛下は非常に気持ちが若く、ご自身の年齢について立ち止まって考えられることはないと思います。勝つ、負ける、引き分ける、女王陛下は結果を徹底的に楽しみます。大変満足されていますが、新しいアイデアは非常に柔軟に受け入れられます」と語った。
そして、「女王陛下の知識の深さは、私がこの産業の中で一緒に取り組んだ誰よりも上回っています。陛下は、サラブレッド生産を洗練された知的な挑戦と見なしていますが、本当に思い通りになることはほとんどないということは十分わかっておられます」と付言した。
その点で、エリザベス女王は、ロイヤルスタッドが将来にわたって安定できるように多くの貢献をしてくれたアガ・カーン殿下が語っていた、心に残る次のような言葉に心底賛同するだろう。
同殿下は、「サラブレッド生産は自然を相手にチェスをするようなものだ」と言っていた。
By Julian Muscat
[The Blood-Horse 2012年8月4日「All the Queen’s Horses」]