競馬界のすべてを変えた伝説の馬、ノーザンダンサー(アメリカ)【その他】
50年前の今日、2週間前にケンタッキーダービー(G1)を制覇していた小柄で鹿毛の牡馬はプリークネスS(G1)に出走するために発馬機に入った。1歳時に2万5,000ドルの最低落札価格でも買い手がつかなかった同馬は、あらゆる期待をすでに凌駕していた。
ノーザンダンサー(Northern Dancer)はプリークネスSを勝ち進んだが、世間はピムリコ競馬場で成し遂げられたこの偉業にほとんど注目しなかった。その調教師であるホレイショ・ルロ(Horatio Luro)氏がせん馬(去勢馬)にするよう勧めこともあるこの馬は、20世紀、そしておそらくあらゆる時代を通じて最も優れた種牡馬になるだろう。
生産者が繁殖牝馬をノーザンダンサーとその子孫のもとへあまりにも熱心に送ったため、ノーザンダンサー伝説礼賛には複雑なものがある。一方では、同馬ほど世界中の神聖なウィナーズサークルへの道標を徹底的に示した馬は存在しない。他方、生産者は今やそのサイアーラインが極めて支配的で同馬の血統を有する繁殖牝馬が増えすぎたために、一流の代替種牡馬を見つけなければならないという真の課題に直面している。
ノーザンダンサーの祖父ネアルコ(Nearco)を生産したフェデリコ・テシオ(Federico Tesio)はこのような状況を思い描いていなかった。ダービーはサラブレッドの発展に極めて重要であるとするこの有名なイタリア人の定義はしばしば引用されている。英ダービーへのノーザンダンサーの影響はその点においてテシオの主張を裏づけているが、同馬はテシオのあまり引用されていない方の格言を一蹴しつつある。
1954年に亡くなったテシオは、偉大なサイアーラインが持続しうるのはわずか3代の間であると明言していた。あるサイアーラインは、他のサイアーラインが栄える道を作る過程において、3代を越える有効性を譲り渡す、というものである。3世紀にわたるサラブレッドの進化に基づく観察は、十分に確かなものであったはずであるが、テシオはノーザンダンサーの子孫から注目されるほどの利益を受けなかった。
ノーザンダンサーは、欧州と米国においてリーディングサイアーになるという稀有な栄誉を達成した。その産駒ダンジグ(Danzig)は、1991年から3年連続で米国のリーディングサイアーとなり、またダンジグ産駒のグリーンデザート(Green Desert)は欧州のリーディングサイアーの1頭となった。テシオの計算によれば、なるべくしてなった結果である。
ノーザンダンサーのサイアーラインは実際、現在も栄えている。グリーンデザートの産駒のオアシスドリーム(Oasis Dream)とインヴィンシブルスピリット(Invincible Spirit)は、ヨーロッパにおいて種付け要請が最も多い種牡馬に数えられており、もう1頭のグリーンデザートの産駒ケープクロス(Cape Cross)は、オーストラリア(Australia 訳注:2014年英ダービー勝馬)の母ウィジャボード(Ouija Board)と、その初年度産駒が今シーズン3歳となり大きな衝撃をもたらしているシーザスターズ(Sea The Stars)の父である。
ノーザンダンサーが種牡馬として達成することを読み違えたのは、テシオだけではない。同馬自体、生まれた時からびっくり箱のようであった。小柄で胴が短い短気な牡馬はサラブレッドよりもクオーターホース(訳注:1/4マイルを走るのに適した品種として作り出された米国原産馬)に似ていた。
このような特徴は、カナダのオンタリオ州にあるエドワード・P・テイラー(Edward P Taylor)氏のナショナルスタッドファーム(National Stud Farm)で毎年開催される1歳馬セリに参加したバイヤーの目に留まらなかったわけではない。470エーカー(188 ha)の土地をきまぐれで購入したテイラー氏は、ケンタッキー州のクレイボーン牧場(Claiborne Farm)の伝説的所有者セス・‘ブル’・ハンコック(Seth ‘Bull’ Hancock)氏の助言に反して、チャンピオン馬を生産する事業に身を投じた。ハンコック氏は、仔馬が生れる時に雪と氷で覆われている牧場ではチャンピオン馬は育たないと主張していた。
競売人が木槌を振りおろしてセリ終了を告げた時、クレイボーン牧場が上場した1歳馬48頭のうち15頭が購買されていた。ノーザンダンサーは、それらの中に含まれていなかったため、ウッドバイン競馬場に厩舎を持つルロ調教師のもとで調教を施されることになった。
ノーザンダンサーは生涯18戦し、最後の出走となった生まれ故郷カナダのクイーンズプレートを優勝した。しかし、このレースにおける7馬身半差での勝利は、相当の代償を払って得られたものである。厄介な屈腱炎が引退間近と思わせるほどまでに悪化していた。14勝という記録は、同馬が健康で、勝利への意思を持っていたことを証明している。
ノーザンダンサーは、すでに故郷カナダでスーパースターになっていた。1964年オリンピックでカナダ人選手が金メダルを持ち帰ったにもかかわらず、同馬はその年の代表アスリートに選ばれ、ベルモントSで三冠達成が叶わなかったにもかかわらず、エクリプス賞の最優秀3歳牡馬に選出された。
三冠競走の最初の2戦で、ノーザンダンサーは気概を示した。西海岸地域のチャンピオン馬ヒルライズ(Hill Rise)の将来性の方を選んだビル・シューメーカー(Bill Shoemaker)によって騎乗を断られたノーザンダンサーは、ケンタッキーダービーで先行馬を追い抜き、接戦の末ヒルライズをやぶった。
ヒルライズが最後の直線で猛追するのは確実のように思われた。同馬は長くてよどみのないストライドで馬場をぐんぐん進んでいたが、素早く歩幅の狭い動きをしたノーザンダンサーは当時のレコードタイム2分フラットでヒルライズを首差で抑えた。このレコードタイムは、その9年後にセクレタリアト(Secretariat)によって破られるまで保持された。
ヒルライズがケンタッキーダービーに続いて一番人気で出走したプリークネスSで、ノーザンダンサーは残り半マイルの地点で先頭に躍り出た。ヒルライズは追走したが、差を詰めることはできそうにもなかった。ノーザンダンサーは2馬身半差をつけて先着し、ヒルライズは2着の地位さえもザスカウンドレル(The Scoundrel)に譲る結果となった。
ルロ調教師は、ノーザンダンサーはスタミナ不足と考えられるためベルモントSを回避するだろうと示唆したことで、論争を引き起こした。テイラー氏はルロ調教師の意見を退けたものの、ノーザンダンサーの三冠達成はこの年アケダクト競馬場で施行されたベルモントSで3着に惨敗した時に打ち砕かれた。
通常、ノーザンダンサーのような競走成績を持つ馬ならば、1965年に種牡馬入りする馬の中でも王者的存在となっただろう。ケンタッキー州の一流牧場に勧誘されていたものの、ノーザンダンサーはナショナルスタッドファームでチャンピオン馬を生産していたテイラー氏により連れ戻され、種牡馬として供用された。
繁殖牝馬の輸送だけでも気が遠くなるような作業であった。最高の繁殖牝馬が暮らすケンタッキー州からオンタリオ州にあるノーザンダンサーの牧場までは、往復800マイル(約1,290 km)の旅であった。ノーザンダンサーに交配したいと熱望する生産者は、同馬の牧場に繁殖牝馬を送らざるをえず、生まれてくる仔馬は発育期を雪と氷で覆われている放牧場で過ごすことになる。それでも、生産者は1万ドルの初年度種付料を支払い同馬のもとに繁殖牝馬を送った。
現在の水準から見てこの種付料が安いと感じるならば、ノーザンダンサーが、サラブレッドが金と同列の商品になる前の時代に競走していたことを思い出さなければならない。同馬は、ロバート・サングスター(Robert Sangster)氏がキーンランド7月1歳セールをお金が激しく行き交う場に変えてしまった時代より前に活躍したのである。ただし、そのような変化をもたらしたのがノーザンダンサーの子孫であるのは、もちろんである。
同馬の供用1年目は、その後どれほど大きな変化が生じたかを示している。初年度種付台帳に記載された繁殖牝馬は35頭であり、そのうち10頭はテイラー氏の所有馬であった。26頭の繁殖牝馬が受胎し21頭の仔馬が誕生した。これらの数字は、今日の数字と比較すると見劣りする。北半球だけでおよそ100頭の初年度産駒を出したフランケル(Frankel)は、その点において今日の代表格である。
ノーザンダンサーの初年度出走産駒は、大きな出来事の先触れであった。産駒21頭のうち18頭が出走し16頭が勝馬となったが、印象的なのはこの16頭のうち10頭がステークス勝馬であったということである。このうちダンスアクト(Dance Act)、ワンフォーオール(One For All)およびヴァイスリーガル(Viceregal)の3頭は、カナダでチャンピオン馬に輝いた。しかしその時すでに、ノーザンダンサーは供用2年目に自身の評価を永久に変えることになる牡馬を送り出していた。
1968年に、偶然の行為によりヴィンセント・オブライエン(Vincent O’Brien)厩舎にニジンスキー(Nijinsky)が現れた。オブライエン調教師は、米国の実業家チャールズ・エンゲルハード(Charles Engelhard)氏により、「リボーの1歳産駒を見に行くように」とテイラー氏の牧場(現ウインドフィールズ牧場)に派遣されていた。同調教師はこの1歳牡駒にあまり関心を抱かなかったが、隣の馬房にいた牡駒に大きな魅力を感じた。エンゲルハード氏は、同馬がセリに上場されたとき、8万4,000ドルで正式に購買し、妻のジェーンがニジンスキーと名付けた。
ニジンスキーの実績については今さら付記する必要はないが、その馬体の大きさを考えるとノーザンダンサー物語においてニジンスキーは重要な存在である。ヴァイスリーガルは、競走馬の完全モデルであったが、ニジンスキーは別格であった。同馬は、体高が155 cmしかなかった父馬ときわめて対照的に堂々とした体格を有していた。ニジンスキーは、鬐甲(きこう)までの体高が父馬より10 cm以上高かった。
ノーザンダンサーの種牡馬生活の早い時期に、ニジンスキーは、馬格の優れた産駒はダンジグやリファール(Lyphard)といったノーザンダンサーの小柄な体格を反映している産駒を凌駕する可能性が十分にあることを証明した。ニジンスキーはまた、複数の生産者がノーザンダンサーに対して抱いていた偏見を克服した。例えば、同馬がベルモントSで敗退したのはスタミナ不足のためであるとか、クラシックタイプの馬とは対照的に短距離馬を送り出す可能性が高い、というものである。
ニジンスキーは1970年に三冠競走を完勝した一方で、ノーザンダンサーの牝駒ファンフルルーシュ(Fanfreluche)は北米で向かうところ敵なしであった。米国の最優秀3歳牝馬とカナダの年度代表馬に選ばれてその年を終えた。全体的に見て、ノーザンダンサーの2年目の産駒は、その初年度産駒の前途有望な快挙をはるかに凌いだ。賽は投げられていた。
オブライエン調教師は、ノーザンダンサー産駒の中に何らかの兆しを見出していた。そしてニジンスキーが三冠を達成した年、ニジンスキーより1歳若い全弟ミンスキー(Minsky)を調教し、アイルランドの最優秀2歳馬に育て上げた。この期間、カナダにおいてノーザンダンサーの最高級の産駒の多くがしばしばテイラー氏の服色で出走し続けていたが、1974年に小柄な栗毛の産駒が誕生したこと(翌年の1歳時にサングスター氏が購買)がノーザンダンサーに国際的に高い評価をもたらした。
最優秀2歳馬に輝いたザミンストレル(The Minstrel)は、3歳シーズンの序盤で英国とアイルランドの2000ギニーの優勝を逃したが、まるでポーカーでフラッシュを作り損ねたような状態から立ち直り、1977年の英ダービー、愛ダービーおよびキングジョージ6世&クイーンエリザベスSに勝利した。他方、カナダではダンスインタイム(Dance In Time)とノーザネット(Northernette)が、それぞれ最優秀3歳牡馬と最優秀牝馬に輝いた。
ザミンストレルで成功を収めたことと、同馬がその後900万ドルでウィンドフィールズ牧場へ再売却されたことにより、サングスター氏はキーンランド1歳セールへ毎年通うこととなった。同氏は世間から注目を浴びるようになり、すでに誰もが認める種牡馬の王者となっていたノーザンダンサーが次々と送り出すチャンピオン馬の恩恵を受けた。
1984年の英ダービーのゴール地点で、もう1頭のノーザンダンサー産駒セクレト(Secreto)と記憶に残る熾烈な争いを演じたのは、卓越した牡馬エルグランセニョール(El Gran Senor)だった。また、トライマイベスト(Try My Best)、ストームバード(Storm Bird)およびダンツァトーレ(Danzatore)という3頭のチャンピオン2歳馬もいた。これらの馬は種牡馬として魅力を有していたが、父ノーザンダンサーを彷彿とさせて欧州の競馬シーンを支配するようになるのは、サドラーズウェルズ(Sadler’s Wells)である。
ダンジグはテシオの種牡馬三代理論をすでに払拭していたが、サドラーズウェルズもいずれ同じことを成し遂げるものと思われる。同馬の産駒ガリレオ(Galileo)は、三代目の最優秀種牡馬になっており、今のところ4回目のリーディングサイアーのタイトルを獲得することは確実視されている。また、ガリレオが四代目のリーディングサイアーを送り出さないとは考えにくい。ガリレオ産駒のニューアプローチ(New Approach)は、すでにその領域に近づいている。また、リーディングサイアーとなりうる産駒としてフランケルもいる。
ノーザンダンサーはまた、種付料の点においても独特である。1965年の初年度種付料1万ドルは、1980年に6桁(数十万ドル)に達し、1984年には出生条件なしで50万ドルに上昇した。また出生条件なしで種付の権利が100万ドルという金額で取引された例もいくつかあった。
同馬の種牡馬成績に関しては、511頭の出走産駒のうち、80%が勝馬、28.5%がステークス勝馬となったことは驚くべきことである(ステークス勝馬率は平均4%)。同馬は、英国、アイルランド、フランス、イタリア、米国およびカナダで26頭のチャンピオン馬を送り出した。
また1歳産駒のうち2頭は、他のどの種牡馬の産駒も到底超えることのできない価格で売却された。シアトルダンサー(Seattle Dancer)は1歳時の1985年に、これまでの最高記録となる1,310万ドルで落札され、その2年後にスナーフィダンサー(Snaafi Dancer)は1,020万ドルで売却された。1984年のキーンランド7月セールでは12頭の1歳産駒が平均価格344万6,666ドルで購買された。公開セリではノーザンダンサーの1歳産駒のうち、しめて54頭が100万ドル以上で落札された。
強い心臓を持った小柄な馬が、大きな遺産を残したのである。
ノーザンダンサーの経歴 誕生:1961年5月27日 オーナーブリーダー:エドワード・P・テイラー、カナダ 調教師:ホレイショ・ルロ 競走成績:ケンタッキーダービー、プリークネスS、ブルーグラスS、フロリダダービー、クイーンズプレート(すべて1964年)およびレムゼンS(1963年)など18戦14勝。 繋養先:1964‒1968年、ナショナルスタッドファーム、カナダ、オンタリオ州(後年、ウィンドフィールズ牧場に改名)、1968‒1990年、ウィンドフィールズ牧場、米国、メリーランド州。 代表産駒:3頭のダービー馬(ニジンスキー、ザミンストレルおよびセクレト)を含め、6ヵ国で26頭のチャンピオン馬を送り出した。また、種牡馬のビーマイゲスト(Be My Guest)、ダンジグ、エルグランセニョール、ファンフルルーシュ、ローモンド(Lomond)、リファール、ヌレイエフ(Nureyev)、サドラーズウェルズ、シャリーフダンサー(Shareef Dancer)およびノーザンテースト(Northern Taste)(日本で10回リーディングサイアー)の父でもある。 死亡:1990年11月16日 |
偉大なノーザンダンサー産駒5頭
ニジンスキー:1970年に英国三冠を達成し20世紀最後の三冠馬であるニジンスキーは象徴的な競走馬で、ケンタッキー州のクレイボーン牧場で種牡馬生活を送った。3頭の英ダービー馬(1982年ゴールデンフリース(Golden Fleece)、1986年シャーラスタニ(Shahrastani)および1995年ラムタラ(Lammtarra))、1983年仏ダービー勝馬で、2回リーディングサイアーになったカーリアン(Caerleon)および1986年のケンタッキーダービーの勝馬ファーディナンド(Ferdinand)を送り出した。ニジンスキーはまた、1986年に英国とアイルランドのリーディングサイアーに輝いた。
ザミンストレル:ロバート・サングスター氏が1975年にキーンランド1歳セールで購買した馬のうち、最も優れた成績を残していることと、1977年に英ダービー、愛ダービーおよびキングジョージを勝利したことで、同馬はサラブレッドへ投資するというサングスター氏の決断の正しさを証明し確固たる地位を築いた。1歳時に20万ドルで落札された同馬はその後、900万ドルで売却され種牡馬生活に入った。種牡馬としては秀でていなかったが、シガー(Cigar 父パレスミュージック)の祖父である。
サドラーズウェルズ:同じくノーザンダンサー産駒の同厩馬エルグランセニョールほどレースで目立たなかった同馬は、1984年に愛2000ギニー、エクリプスSおよび愛チャンピオンSを優勝後、輝かしい種牡馬成績によりノーザンダンサーの影響を最も受けた産駒としての地位を確実にした。サドラーズウェルズは、英国とアイルランドで14回リーディングサイアーとなり、そのうち13回は1992年から連続の受賞であった。また、フランスでも3回、米国でも1回リーディングサイアーとなった。
ダンジグ:骨細片のために短命に終わった現役生活で3戦3勝の成績を残したダンジグは、種牡馬として大きな影響を及ぼした。同馬は1991年から3年連続で米国のリーディングサイアーとなり、産駒の獲得賞金は1億ドルを超えている。多くの有名種牡馬を送り出し、とりわけデインヒル(Danehill)は、英国とアイルランドで3回、オーストラリアでも9回リーディングサイアーとなった。
ヌレイエフ:1980年の英2000ギニーで1着入線後に失格となった同馬は、チャンピオン馬となる多くの産駒に際立ったスピードを譲り伝えている。その中にはミエスク(Miesque)、パントレセレブレ(Peintre Celebre)、リームズオブヴァーズ(Reams Of Verse)、スピニングワールド(Spinning World)、ソニックレディ(Sonic Lady)、ストラヴィンスキー(Stravinsky)、シアトリカル(Theatrical)およびジルザル(Zilzal)がいる。ヌレイエフのサイアーラインの影響力は弱まっているが、ピヴォタル(Pivotal 父ポーラーファルコン)の祖父である。
By Julian Muscat
[Racing Post 2014年5月19日「Legend who changed everything」]