ヒューズ元騎手、引退したファロン騎手について語る(イギリス)【その他】
キーレン・ファロン(Kieren Fallon)は偉大な騎手、そして史上最高の騎手の一人だ。それに良い人間であると、いつも私は思っていた。
我々は26年前、インドで初めて顔を合わせ、すぐに意気投合した。当時、私は若手騎手で遠征していた。アイルランドから英国に移る4年前のことだった。キーレンは当時から、"君は英国に移るべきだ"と主張していた。それは善意からの率直なアドバイスだった。"アイルランドにとどまっていると気が変になってしまうぞ"と彼は言った。最終的に思い切ってその助言に従うことにした。そうして良かったと思っている。
そう決断したのは、当時ヨークシャーを拠点としていたキーレンとともに過ごした影響からだ。アイルランドで1週間の騎乗停止処分を受けた私は、ヨークシャーに飛んだ。レースで騎乗するキーレンに同行し、マーク・ジョンストン(Mark Johnston)厩舎の調教で騎乗したり、キーレンと一緒にジミー・フィッツジェラルド(Jimmy FitzGerald)調教師に会いに行ったりした。キーレンは誰よりも親切にしてくれた。私に立派な騎手になってもらいたいと心から思っていたのは明らかだった。
英国に移籍後、検量室でキーレンと一緒になるようになった。ジミー・フォーチュン(Jimmy Fortune)やマーティン・ドワイヤー(Martin Dwyer)もいた。我々はふざけ合っていたが、キーレンは毎日変わらない様子だった。
彼の変わらない特性の一つは、新しい物への熱烈な興味である。ある日、彼は検量室に入ってくるなりこう言った。「この新しい鐙は最高だ。君たちも試してみるべきだ」。次の週はこう言った。「この新しいビタミン剤は最高だ。君たちも試してみるべきだ」。新しい物は最高だとすぐに独り合点するのだ。私たちはクスクス笑いながらうなずいた。
我々は一緒にインドに遠征することもあった。インド料理はキーレンの口にはあまり合わなかった。スパイシーフードが駄目だったのだ。
我々はあるレストランによく通った。キーレンはいつもマッシュポテトとタマネギの料理を注文した。ある日ジミーがトイレに行って席に戻ったとき、キーレンの料理がすでに出されていた。キーレンが食べ始めようとしたとき、ジミーは目撃したことを話した。ドアのガラス窓越しに厨房を覗いたジミーは、シェフが素手でポテトを練り潰しているのを見たのである。その瞬間から、キーレンはスパイシーフードだけでなくマッシュポテトも避けるようになった。
キーレンは競馬場で、よく縁起を担いでいた。バレットのマスティー(Musty)に"幸運をもたらすブーツを忘れてきた"とよく愚痴をこぼしたものだ。するとマスティーは私に目配せした。キーレンは幸運をもたらすブーツを25足ほど持っていて、毎日違うブーツを履いていたようだ。そのような迷信深い特性は、おそらくアイルランド人に古くから備わっているものの一つで、我々も多かれ少なかれそういう一面を持っている。しかしレースが始まれば、キーレンは縁起に頼る必要はなかった。彼が頼ったのはその驚くべき才能だった。
馬を愛していることが、彼があれほど卓越した騎手になった一番大きな理由である。ムンバイで彼の朝の行動を観察したことを思い出す。彼が馬に乗ることをどんなに楽しんでいるかは、一目瞭然だった。インドでは通常、騎乗を終えた騎手はすぐに下馬する。だが、キーレンは鞍上にしばらくとどまりたがった。乗る時も下りる時も十分な時間を掛けて馬の気持ちを理解し、最良の騎乗方法を習得していった。
キーレンは、馬を深く愛すると同時にいつも褒めていた。跨る前に愛撫して、馬に自己紹介した。荒々しく攻撃的に声を掛けることはなかった。馬が思い通りに走らなかったときには、何か不具合があったに違いないと考えた。キーレンに騎乗してもらったどの調教師も、彼は馬を責めたことが一度もないと認めるだろう。彼は調教師を非難することはあったかもしれないが馬を非難することはなかった。それが、彼が馬と親密な関係を築くことができた大きな理由である。
彼はレースでは容赦なかったがフェアだった。キーレンの内側には絶対入れないと誰もが心得ていた。しかし、背後から圧倒的な勢いであがってきた馬には、キーレンが妨害しないように進路を開けることもよく知られていた。
残り2ハロンでキーレンと並ぶのは嫌だった。彼がお馴染みのスタイルで前方を走っている場合は、見た目よりずっと好調である可能性が高い。彼は手綱を短く持ってかがみ込み、肘を動かしている。しかし、それは見せ掛けだけで我々の目をあざむくものだった。私のほうは、手綱をピンと張って楽々と乗っているので、実際より力強く前進しているように見えただろう。だが、キーレンと私は正反対だった。
キーレンが漕ぐようなフォームで馬を追い始めると、他の騎手に"キーレンが仕掛けだした"という危機感を持たせ、早仕掛けを余儀なくさせる。しかし実はキーレンは馬なりで走らせていることが多いのである。ライバルたちは、キーレンを単独で先頭に立たせれば、そのまま簡単にリードを保たせてしまうことを知っていた。そのためキーレンが動けば周りも仕掛け、しばしば半馬身ほどリードはするものの、その後キーレンが差し返すのだ。私に対しても、思い出せないくらい頻繁にそのような作戦を取った。何度も私を出し抜いた。キーレンは天才騎手だった。
キーレンがナイトオブサンダー(Night Of Thunder)で英2000ギニー(G1)を制した時は嬉しかった。私は同厩馬のトゥールモア(Toormore)に騎乗したが、結局それはまずい選択だった。キーレンの健闘を望み、レース前に"君が勝っても少しも驚かない"と言ったことを覚えている。その後、私が再びナイトオブサンダーの鞍上を任された時、キーレンは私の健闘を望んだ。というのも、彼に英2000ギニー優勝をもたらした馬が引き続き好調なキャリアを歩むことを熱望していたのだ。私が騎乗して悪い成績となれば、再び自分がその馬の鞍上に戻れるなどとは全く考えていなかった。
騎手仲間はいつも、"キーレンは九生を持つ猫のようにしぶとい"と考えていた。彼について驚かされる事の一つは、何があっても絶対に立ち直ることである。普通の人間がキーレンの身に起こった事のいくつかを経験すれば、逃げたり隠れたりするだろう。だが、結果を潔く受け止めてくじけず毎日を生きて行くというのが、キーレンの流儀だった。彼は浴びせられた批判の多くを聞き流した。私は彼のそんな姿勢に感心した。
また、驚くべき冷静さにも敬服した。さまざまなことが起こっている最中に、ディラントーマス(Dylan Thomas)で凱旋門賞(G1)を制したことは本当に信じられないことだった。どうにかして諸問題を頭から消し去り、レースに集中したのだ。誰もそんなことが起こるとは予期していなかった。あの状況で集中力を保ちきるのは奇跡だったが、彼はそれを成し遂げた。そして、私が騎乗していたユームザイン(Youmzain)をアタマ差で下したのである。
キーレンのキャリアに翳りが見えてきたことが、私が引退を決断する一つの理由となった。調教師を始めたいと思っていたから運が良かった。キーレンはピーターパンとなって一生騎手を続けたかったのではないかと思う。まだ十分にやれる状態にあったのは確かだろう。
キーレンは、フランキー・デットーリのように洗練されていなかったが、それはパット・エデリー(Pat Eddery)も同じだろう。キーレンもパットも馬上にいるときはとても生き生きとし、満足感に溢れていた。それを心地良く感じているようだった。
キーレンは完璧ではなかったが、完璧な人間など存在しない。しかし、彼は優しい男である。それが、我々が彼を愛する理由である。彼は大丈夫だろう。
By Richard Hughes
(関連記事)海外競馬ニュース 2016年No.27「キーレン・ファロン騎手、重度のうつ病のために引退(アイルランド)」
[Racing Post 2016年7月9日「'How Kieren won the Arc with all the stuff going on was just incredible'」]