流星のごとく現れた才能溢れるオイシン・マーフィー騎手(アイルランド)【その他】
決定的瞬間は目前に迫っていた。愛チャンピオンS(G1)において、ロアリングライオン(Roaring Lion)の鞍上オイシン・マーフィー(Oisin Murphy)騎手は、ずっとヴァーバルデクステリティ(Verbal Dexterity)の後ろに控えていた。馬群を率いていたのは、ドーヴィル(Deauville)、サクソンウォリアー(Saxon Warrior)、ロードデンドロン(Rhododendron)であり、バリードイル(クールモアの調教拠点)のこの3頭は先頭で競り合っていた。スローペースのレースで後方の位置取りとなってしまったことで、残り4ハロン(約800m)の地点で、マーフィー騎手には早くも選択肢が残されていなかった。
馬群がゴールに向かうときには、全力疾走となるだろう。最終コーナーを回るときに、マーフィー騎手の頭の中で"内埒沿いに入り込め"という誘惑の声が響いたが、彼はそれに抵抗した。また、"馬群の大外を回れ"という誘惑にも乗らなかった。それをすれば、長い距離を走らされることになる。
それよりむしろ、マーフィー騎手はしっかり腰を据え、目前に迫った全力疾走に備えて気を引き締めた。サクソンウォリアーがゴールに向かってスパートを掛けたときに、その瞬間はやって来た。ロアリングライオンは3馬身の差を縮めるために思い切り地面を蹴った。残りわずか2ハロン(約400m)だったが、マーフィー騎手の頭は冴えわたっていた。直線半ばの仕掛けるタイミングに到達するまで、身を徐々にかがめた。
トップギアに入ったときになってやっと、マーフィー騎手はロアリングライオンにすべての指示を与え、同馬はそれに全力で応えた。ゴール板が間近に迫っていたとき、ロアリングライオンには、ばて始めていたサクソンウォリアーを追い抜くのに十分な勢いがあった。間一髪でセーフだった。少しでも冷静さを欠けば遠回りさせられる駆引きの中で、マーフィー騎手はついに数インチの差で勝利を収めたのだ。
ロアリングライオンがゴール後に緩やかに走っているときに、マーフィー騎手の顔に浮かんだのは喜びではなく安堵だった。それは当然のことである。なぜならレースの80%において、運は彼に味方していなかったからだ。大外からの発走であったにもかかわらず、彼は困難の中でなんとか勝利を引き寄せた。このレースで、急速に成長している姿をまたもや見せつけたのだ。昨年の今頃にはG1に騎乗したことすらなかった彼にとって、これはG1・9勝目となった。
ロアリングライオンの馬主はファハド殿下のカタールレーシング社である。同社の競馬・生産マネージャーであるデヴィッド・レッドヴァース(David Redvers)氏は、こう振り返った。「愛チャンピオンSはオイシンにとってもっとひどい展開になるかもしれませんでした。しかし彼は起こったことに素早く対応しました。冷静さを保ち続け、直線に入ってから本格的に動き始めました。焦ってあらゆる手を試すようなことはありませんでした。それが状況を一変させました」。
ビッグレースの結果はこのようなほとんど知覚できないような差で決まる。マーフィー騎手は自らそれを学んでいた。サセックスS(G1)でライトニングスピア(Lightning Spear)とぴったりと息が合うようになる前に、イライラする時期を経験していた。また、多くの人が勝つはずだと考えていた昨年のレーシングポストトロフィー(G1)では、ロアリングライオンが鞭を受けるたびに左右に寄れて、サクソンウォリアーに僅差で敗れた。
レッドヴァース氏はこう語った。「レーシングポストトロフィーから愛チャンピオンSまでの成長ぶりには目を見張るものがあります。オイシンの今シーズンの騎乗には、エネルギーと自信が備わっています。勝利と敗北には、たったコンマ数秒や数ミリの違いしかありません。勝敗の理由はいつも肉眼で見えるものではありません」。
弱冠24歳のマーフィー騎手には十分な実力が備わりつつある。2013年9月のエアゴールドカップデーにおいて、当時19歳だった彼は大胆にもメインレースを含む4レースで勝利を挙げた。それはデビューから3ヵ月後のことだった。以来、彼は出世の階段の多くを二段飛ばしで上り、今やその最上段に立っている。
アイルランドのキラーニーで生まれ育ったマーフィー騎手は10代前半、叔父ジム・カロティ(Jim Culloty)氏[元障害騎手。ベストメイト(Best Mate)でチェルトナムゴールドカップ3勝]と故トミー・スタック(Tommy Stack)氏が営む地元の厩舎で働くことで競馬の世界に足を踏み入れた。その後、セントニコラスアビー(St Nicholas Abbey)やキャメロット(Camelot)が現役だった頃のバリードイルで5ヵ月間働いた。その時すでに才能の片鱗を見せていたはずだ。彼が朝の調教で乗っていた当時2歳のルーラーオブザワールド(Ruler Of The World)は後に英ダービー(G1)で優勝することになる。
2012年10月、マーフィー騎手は英国のアンドリュー・ボールディング(Andrew Balding)厩舎に送られる。バリードイルで優良馬に騎乗していた日々からは一変、野心を燃やす見習騎手志望者の長いリストの一番下に書き込まれることになった。彼はそこで6ヵ月間を過ごした後に、騎手免許を取得した。
それからの彼の出世はとても早く、その若さは見落とされやすかった。昇進とともに彼は自然に自信をつけていったが、それはすでに名声を確立した騎手たちの神経を逆なでした。ただ、期待の新星であったものの、G1初勝利には時間が掛かりもどかしい思いをした。しかし重賞22勝目を挙げた後、ついに2017年凱旋門賞開催日のフォレ賞(G1)においてアクレイム(Aclaim)を勝利に導いた。
このG1初勝利を機に、マーフィー騎手は堰を切ったように勝ち始めた。彼は今でも可能な限りボールディング調教師の管理馬に騎乗しているが、同調教師は「オイシンは今や優良馬に騎乗させてもらっていますが、それには理由があります。彼の専門的技術・レースへの下準備・研究心にはいつも目を見張らされますが、それに加えて彼はビッグレースに挑むのに必要な強い心を持っています」と語った。
ボールディング調教師は、マーフィー騎手がG1勝利というプレッシャーから解放されたことについて、自らの意見をこう述べた。「オイシンはG1初勝利を果たすまで5年かかりました。私はそれが長かったとは思いません。なぜなら彼の出世は非常に早いからです。今やあらゆる点でライアン・ムーアやジェームズ・ドイルと同じぐらい頼りになる騎手となっています」。
マーフィー騎手は仕事に没頭することで、情熱の火をさらに燃え上がらせている。多忙な調教スケジュールにもかかわらず、依然として日曜日はジョー・テュート(Joe Tuite)調教師のために騎乗する。彼は2015年イボア開催でテュート厩舎のリティガント(Litigant)に騎乗し勝利を挙げている。また、マーフィー騎手は競馬界全般にわたる事柄に精通しているので、状況を読み取ることに長けている。彼は、自らのランボーンの拠点のすぐ近くで厩舎を構えるアーチー・ワトソン(Archie Watson)調教師の優れた能力にすぐ気づき、実りある協力関係を築いている。
ワトソン調教師はこう語った。「オイシンは最近とても多忙ですが、まだ私たちのところに来て調教で乗ってくれますし、競馬場での調教も手伝ってくれています。今シーズンは成績からも分かるとおり優良馬に乗せてもらっているようですが、私はいつも、いずれトップに立つ騎手として彼を見てきました」。
「オイシンが他の騎手と違うのは、馬にただ騎乗するだけではなくその馬の全てを十分に理解しているところです。彼は一頭一頭がどのような血統かを把握しています。それは優秀な騎手となる上で大切な財産です」。
マーフィー騎手は2015年末、アンドレア・アッゼニ騎手の後任としてカタールレーシング社の主戦騎手となり、ファハド殿下のチームの一員となっている。アッゼニ騎手の契約は1シーズンのみであり、その前任のジェイミー・スペンサー(Jamie Spencer)騎手の契約は2シーズンだった。スペンサー騎手が主張するように、カタールレーシング社の主戦騎手という役割を務めるには、特別な要求が突きつけられる。同騎手は、「馬主が多くの調教師に馬を預けているときは特に、このポジションは大変困難です。なぜなら、調教師によって指名されたわけではないのに、その調教師のために多数の馬に騎乗しなければならないからです。その場合、調教師との相性が良いときもあれば悪いときもあるので、安定した関係を築くのがとても難しくなります」と語った。
マーフィー騎手がこの困難だがやりがいのあるポジションに抜擢されたのは、偶然のめぐり合わせからかもしれない。2014年5月、まだ3ポンド(約1.36kg)の減量特典が与えられていた彼は、カタールレーシング社のホットストリーク(Hot Streak)に乗ってテンプルS(G2)を制し、自身にとっての重賞初勝利を挙げた。その年の終わり、最優秀見習騎手となりファハド殿下の第2騎手に起用され、その1年後にはファハド殿下の主戦騎手となったのだ。
レッドヴァース氏はこう回想した。「アンドレアが去ったとき、私たちは話し合いましたが、外部から騎手を連れてきて主戦騎手の座に据えるべきではないとすぐに結論づけました。私たちはそれまでに、オイシンにかなりの才能があることに気付いていました。プライベートでも、オイシンとファハド殿下はすぐに仲良くなりました。オイシンはファミリーの一員と考えられています」。
マーフィー騎手を高く評価するのは、彼を直接起用する馬主や調教師だけにとどまらない。彼はそれ以外の関係者の馬でも多くのビッグレースを制している。最近では9月のスプリントカップ(G1 ヘイドック競馬場)をザティンマン(The Tin Man ジェームズ・ファンショウ厩舎)で制した。ここぞというときに勝てる才能があるのかもしれない。
レッドヴァース氏は最後にこう言った。「オイシンはいかなるチャンスも両手でつかみ取ってきました。自分の能力に自信を持っています。私も彼ほどうまく乗れる騎手はいないと思っています。今のところ、人々は彼を見守っている段階です。勝つ見込みのない馬でも、奇跡のようなことを起こしてくれるのではないかと期待しているのです」。
By Julian Muscat
[Racing Post 2018年9月24日「SHOOTING STAR」]