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2021年10月21日  - No.10 - 4

英国馬の凱旋門賞での不振を打ち破ったミルリーフ(フランス)【その他】


 レスター・ピゴットは、凱旋門賞がフランスの要塞と表現されることには十分な理由があると証言するだろう。英国とアイルランドの調教馬は1960年代半ばからこのレースで注目を浴びる敗北を続け、この偉大な名手は絶望の深淵に追いやられていた。

 ピゴットは1966年から5年連続で悲痛のかぎりを経験した。まずこのレースに1番人気で臨んだノエル・マーレス厩舎のアーントエディスに騎乗して完敗した。その翌年には、勝つ見込みが十分にあったリボッコで3着となり、それから3年間はサーアイヴァー、パークトップ、ニジンスキーでそれぞれ2着となった。ニジンスキーがササフラに敗れたことは物議を醸した。

 ピゴットはニジンスキーに無理をさせすぎたと非難されたが、この牡馬は最高の状態ではなかった。英国三冠馬は4月から使われっぱなしで、10月初めの凱旋門賞は1970年の過酷なシーズンの7戦目となっていた。ピゴットはミルリーフの関係者たちに悲しげな一瞥を送ったに違いない。ミルリーフは翌年に同じようなローテーションで凱旋門賞に挑もうとしていたのだ。

 ニジンスキーが勝てなかった凱旋門賞をミルリーフが制してから今年で50年になる。ミルリーフがウィナーズサークルに連れてこられたときロンシャン競馬場は騒然となり、勝ちを信じて遠方から来た大応援団に大喝采で迎えられた。

 ミルリーフは1948年のミゴリ以来、23年ぶりの凱旋門賞を制した英国調教馬となった。そのミゴリは、凱旋門賞創設3年目の1923年の優勝馬パースに次ぐわずか2頭目の勝利をつかんだ英国調教馬だった。

 ミルリーフの驚くべき勝利は、このような背景のもとで達成された。この牡馬に騎乗したジェフ・ルイスは勝利を信じて疑わなかったと主張する。それは残り3ハロン(約600m)で馬群がゴールに向かって弧を描く中、ミルリーフを内柵から離して他馬に挟まれてしまったときでさえもそうだったという。

 ルイスはこう語った。「うまく抜け出せませんでしたが、ミルリーフについて1つ学びました。それはトラブルに巻き込まれてもそれを突破するだけのスピードがあったということです。それがなければ、凱旋門賞で勝てなかったでしょうし、彼に騎乗したほかのレースも同様だったでしょう。すべては彼次第だったのです」。

 ルイスが言うところのスピードは、ミルリーフが初めて競馬場に足を踏み入れたときから一目瞭然だった。彼が2歳の5月にソールズベリーでデビュー戦を走るとき、調教師のイアン・ボールディングは"スタートが悪いかもしれない"とルイスに注意を促していた。それでもミルリーフは力を振り絞り、ピゴットが騎乗する単勝1.2倍の1番人気馬ファイアサイドチャットに4馬身差をつけて完勝した。

 レース後、ルイスはボールディングに「あなたがこれまで手掛けた中で最高の馬であることは間違いありません。それに、むしろ生涯最高の馬になるかもしれません」と報告した。

 ルイスが言ったことは的中した。凱旋門賞はどのレースよりもスタミナが試されるレースである。たいていの場合走りやすい馬場の上を、終始変わらず全速力で走行する。ミルリーフのデビュー戦(約1000m)での勝利、そしてその後のコヴェントリーS(約1200m ロイヤルアスコット開催)での6馬身差の勝利を見れば、彼がマイル以上の距離を持ちこたえるとはほとんど想像できなかった。ましてや、1½マイル(約2400m)などは言わずもがなである。

 それは血統からも察することができた。彼の父は1962年米国最優秀2歳牡馬で快速馬のネヴァーベンドだった。しかしルイスはまったく違った見方をしていた。

 「彼のことを知らない人にとっては並はずれたことだと思われたかもしれませんが、彼に跨ると何でもできるという感じがしたのです」。

 ルイスにはジョン・ハルムという盟友がいた。ミルリーフは1歳の終わりにオーナーブリーダーのポール・メロンが所有するロークビーファーム(米バージニア州)から英国に輸送されたが、到着したその日から世話をしてきた厩務員がハルムである。

 ハルムは、「1½マイル(約2400m)の話が出ることをまったく疑っていませんでした。日々の調教で乗るときでさえも、走れば走るほど強くなっていきました。ジェフもまったく同じことを感じていました」と語った。

 ボールディングが目標をロンシャンに定めるまでに、問題はとっくに解決していた。ミルリーフは英2000ギニーで意外にもブリガディアジェラードに敗れたが、英ダービーを2馬身差、キングジョージ6世&クイーンエリザベスSを6馬身差で制したのだ。ピゴットはミルリーフを見たこともないような良い馬だと言ったという。

 それらのレースのほかにも、ミルリーフはエクリプスSで優秀な4歳のフランス調教馬カロを4馬身退けて優勝した。欧州において1¼マイル(約2000m)以上では最強馬であるという彼のステータスは疑いようのないものになっていた。しかしボールデンングはキングジョージの後の短期間の放牧からミルリーフを戻したとき、疑念に悩まされた。

 当時32歳だったボールディングは、ミルリーフを前哨戦に出走させず凱旋門賞に直行させることを選んだ。その代り、この3歳馬は凱旋門賞の2週間前にニューベリー競馬場の調教走路を走った。

 ボールディングは自伝の中でこう述べている。「ミルリーフは調教中、併せ馬の相手2頭に2馬身ほどの差をつけて好タイムでゴールしましたが、その追い切りは決して強い印象を与えるものではありませんでした。フランスに向かう前にさらに3本の短い追い切りを行いましたが、本当の輝きを見せませんでした」。

 ニジンスキーのおぞましい幻がボールディングを襲ってきた。

 彼はこう記している。「使いすぎたことでミルリーフの許容範囲を超えてしまったのではないかという恐怖感に襲われました。4月中旬にグリーナムS(G3)でうまく優勝を遂げた後、4回もG1競走に出走しました」。

 ミルリーフはハルムに付き添われて、凱旋門賞の2日前にフランスに向けて出発した。ボールディングの厩舎(キングスクレア)に近い米国の空軍基地であるグリーナム・コモンから彼は飛び立った。有力な縁故のある英国びいきのメロンが米国国防総省内でコネを利用し、必要な離陸許可を手に入れたのである。

 ミルリーフはシャンティイ近郊のラモルレイにある空き家状態の小さな厩舎に向かい、そこで凱旋門賞に向けて準備することになった。到着翌日、ボールディングはリードホースと一緒に芝の調教走路で4ハロン(約800m)を走るミルリーフの姿を見た。その朝、ミルリーフはボールディングの目を満足させた。この牡馬は最も過酷な任務のわずか24時間前に、最高の状態に戻ったかのようだった。

 それに対してハルムはこの仕上げのあいだ、これほど幸せなことはないと思っていた。

 そして、「ニューベリーは準備運動に過ぎなかったのです。"彼が完璧に仕上がった"と思いました。そして当日は110%の力を発揮してくれました」と振り返った。

 数年間失望する結果に終わったことを踏まえても、本当に凱旋門賞でミルリーフに死角はなかったのでしょうか?

 ハルムは何のためらいもなく"なかったですね"と言い、「とても自信がありました。彼がエクリプスSを制したとき、彼を負かすにはよほどすごい馬がいなければならないことが証明されたと思いました。初めて古馬と対戦したレースで、古馬を徹底的に負かしたのですから。ダービーを勝ったことで、彼は自信をもって振る舞えるようになっていたのです」と続けた。

 ルイスも同様に強気だった。

 「凱旋門賞で何頭かの名馬が負けたことは知っていましたが、彼が負けるということはまったく念頭にありませんでした。それまでも良い馬には乗っていましたが、ミルリーフについては何かが違っていたのです」。

 「彼はいつも、やるべきときにはやってくれるように見えました。調教場では少し厄介なしぐさを見せることもありましたが、最高に乗りやすい馬でした。ある朝、調教走路で1頭の馬が彼の前に出て行くと、彼は瞬く間にそれを追いかけて行きました」。

 「彼はまさに状況を理解していました。すべきこと以外は何もせず、私がやってほしいと思っていることでも、気が向かないかぎりやってくれませんでした。どのレースでも彼を押さえつけようとしたことはありません。私は彼に正しい方向を示し、落馬しないようにするだけで良かったのです」。

 ルイスの謙遜した言葉とは裏腹に、レースはそれほどシンプルではなかった。ミルリーフの対抗馬は強く、中でもピストルパッカーという馬は名伯楽アレック・ヘッドに管理され5連勝していた。前走で凱旋門賞と同じ距離のヴェルメイユ賞を制して、欧州の牝馬の賞金記録を塗り替えていた。

 父アレックを補佐した後に独立して調教師として活躍することになる娘のクリケットは、当時22歳でスペインに住んでいた。ビッグレースの際にはフランスに戻っていたが、凱旋門賞でピストルパッカーがミルリーフを動揺させようとしたのをかなり鮮明に覚えている。

 クリケット・ヘッド⁻マアレクはこう振り返る。「ピストルパッカーはとても強い牝馬で、フランス最強の牝馬でした。彼女がすごいレースをすることをパパは期待していました。不利な出走枠だと言う人もいましたが(大外の18番ゲート)、私にとってミドルディスタンスのレースに不利な出走枠など存在しません。調教師にとっては後になってつべこべ言うにはもってこいの言い訳なのです」。

 ルイスは対抗馬の服色の表を作成し、各馬を一瞬で見分けられるようにしていた。またレースの1ヵ月前から酒とタバコを断ち、意気込んで臨んだ。そしてレース序盤はプラン通りに展開し、ミルリーフは注意深く発走して前のほうの位置につけた。

 ルイスはこう語る。「最終コーナーまではずっととてもいい感じで走れました。コーナーを過ぎるとオルティスに騎乗していたダンカン・キースが目の前にいました。そのとき、外からピストルパッカーが近づいてくるのが見えたので、どうにかしなければならないと思いました」。

 「ちょうどそのとき、ダンカンの馬が疲れて少し左に寄れてきました。肘で押していくらかスペースを作ろうと思ったら、ダンカンはそれが私だと分かったのか、少しだけ力を抜いてくれたのです。彼は私がこのレースで勝つのに力を貸してくれましたが、いずれにせよミルリーフは自分で道を切り開いていたでしょう。彼は周りの馬を気にしませんでした。そしてちょうど隙間ができ、その瞬間から私たちは勝利を確実にしたのだと分かりました」。

 隙間を見つけると、ミルリーフは一気に加速してピストルパッカーに3馬身差をつけて優勝した。彼はコースレコードを更新し、それによりウィナーズサークルに観衆が殺到することになった。

 ヘッド⁻マアレクは、「ピストルパッカーは素晴らしいレースをしましたが、言い訳のしようがありませんね。素晴らしい馬に出くわしてしまったのですから、どうしようもありません。いつも勝ちたいと思っていますが、現実的にならなければなりません。ミルリーフはとびきり最高の馬でした」と振り返る。

 一方、柵の脇にいたハルムは完璧な光景を目にしていた。

 「信じられないことでした。厩務員は誰しもダービーと凱旋門賞を勝ちたいと思っています。実際にそのようなことが起こってみないと、その気持ちはうまく表現できません。私たちが戻ってきたときには大歓声が上がっていて、考え事ができないほどでしたが、そのときはただ、馬を競馬場から安全に離れさせることだけを考えていました」。

 ハルムはミルリーフを連れてラモルレイに戻り、その夜は彼の馬房の上にある部屋で眠り、ほかの関係者はパリに向かった。翌日にそこからキングスクレアに戻ったとき、ミルリーフは英雄として迎えられた。ミルリーフは同じシーズンに英ダービー、エクリプスS、キングジョージ、凱旋門賞を制した初めての馬となり、偉大な競走馬のパンテオン入りを確実にしたのである。

 メロンは凱旋門賞連覇を目指して、4歳シーズンもミルリーフに現役を続けさせた。しかし1972年8月、調教中に左前肢を4ヵ所骨折してしまった。彼を救うためには最先端の手術が必要だった。手術のあとミルリーフは種牡馬として大きな功績を残した。1978年と1987年にシャーリーハイツとリファレンスポイントという英ダービー馬を送り出し、リーディングサイアーとなった。

 それにもかかわらず、ミルリーフは多くの馬が挫折した場所で隆盛をきわめた馬として記憶されている。英国馬の凱旋門賞での長期の不振がようやく解消されたのである。

 ボールディングはのちにこう記している。「おそらく調教師としての最大の試練でした。3歳馬であの偉大な国際競走を制すことは、私よりもはるかに優れた多くの調教師が成し遂げられなかったことでした。たとえ私がほぼ間違いなくベストでない状態にしてしまったとしても、ミルリーフはそれでも勝利をつかむのに十分な能力を持っていたのです」。

By Julian Muscat

[Racing Post 2021年9月25日「'I rode some great horses - but there was something different about Mill Reef'」]


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