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2021年11月24日  - No.11 - 4

伝説的なロワイエ-デュプレ調教師の意義深いキャリア(フランス)【その他】


 戦後の欧州競馬界における偉大なキャリアのひとつが数週間後に、予定よりも1年遅れの終焉を迎えようとしている。しかしそれは、生涯にわたる成功、思い出、そして偉大なる国際的名声を隅々まで勝ち得たキャリアだった。

 アラン・ド・ロワイエ-デュプレは38年間にわたりアガ・カーン殿下の主要トレーナーを務め、競馬ファンの心をたちまち虜にする一連のチャンピオン馬を手掛けてきた。それらの馬には、彼が気軽に"殿下"と呼ぶ人物のエメラルドグリーンの勝負服を背負ったものもいれば、主にオーナーブリーダーの幅広いコレクションに貢献したものもいた。

 ヴァリアは10月24日にロンシャン競馬場のロワイヤルオーク賞(G1 3100m)のスターティングゲートに収まるとき、ロワイエ-デュプレにとって地元フランスでの最後のG1出走馬となる。おそらく、同馬の経歴にG1勝利を加える最後のチャンスとなるだろう。この調教師がG1優勝という金字塔を初めて打ち立てたのは1983年7月にまでさかのぼる。マサリカがイヴ・サン-マルタンを背にロベールパパン賞(当時G1 1987年からはG2)を制したときだ。

 これは、アガ・カーン殿下がフランソワ・マテの後継者としてサルト(フランス西部)を拠点としていたロワイエ-デュプレを呼び寄せたことを早くから正当化した。マテは1983年1月に亡くなるが、その数ヵ月前にロワイエ-デュプレに初めて預託された5頭の中にマサリカがいた。そのうちのもう1頭、シャラヤ(Sharaya)は9月のヴェルメイユ賞を勝つことになる。またサン-マルタンとの協力関係も大きな強みであったと彼は認めている。

 「イヴ・サン-マルタンと出会ったことはすごく貴重でした。彼はマテ氏のもとで育った素晴らしい攻馬手であり、とても規範的で、馬に乗っているときはほとんど動かなかったのです」。

 「イヴは完璧に均整がとれていました。私は障害馬術や馬場馬術などの馬術競技の経験者ですが、彼は偉大な乗り手に求められるものを持っていました。すなわち、何かしてもほとんどその動きが見えないということです。調教走路で彼を見ることに大きな喜びを感じており、それでどのようにすべきかを学ぶのにとても役立ちました」。

 「彼が追い切りで馬を酷使するのを見たことがありません。そう評価できるのは、追い切りの1週間後に同じ馬を同じ場所に連れて行ってもストレスの兆候が見られないからです。それは前回の追い切りをよく覚えているということです。馬が動揺しているとしたら、それは前回に多くのことを要求されすぎたからです」。

 「キャリアの中でもあの時期にイヴに出会えたことはとてもラッキーでした。若くて知らないことばかりだったので、その時代の最高のジョッキーと働けたのはすごいことでした」。

 マサリカのロベールパパン賞制覇から1年も経たずして、ロワイエ-デュプレとサン-マルタンのコンビは1984年仏ダービー(G1 ジョッケクルブ賞)を制してクラシック初制覇を遂げた。ロワイエ-デュプレはこのレースを6勝することになるが、その1勝目となった。シャンティイのこのレースは、ダルシャーンがサドラーズウェルズとレインボークエストを撃退したことで歴史に残るレースとなった。ロワイエ-デュプレは39歳だった。

 「ダルシャーンが1番人気だったかどうかは分かりませんが、いずれにしてもプレッシャーは感じませんでした。とはいえ、初めて管理馬を出走させた本物のクラシック競走であり、勝つことですべてが変わるかもしれないという気持ちは確かにありました。あのようなレースを勝てばいっそう自信がつきます。それにイヴのダルシャーンの騎乗は完璧だったので、3年後にナトルーンでこのレースを制したとき、2つの映画を同時に流しているように、まったく同じレースになっていたのです。彼は偶然に何かをしたわけではなく、ただ完璧だったのです」。

 その年の11月に、ラシュカリとサン-マルタンはハリウッドパーク競馬場で開催された第1回BCターフ(G1)を制した。ロワイエ-デュプレ厩舎の馬がG1競走に54倍のオッズで出走するのはほぼ間違いなくこれが最初で最後だっただろう。

 筆者が十数年前にフランスに来てからずっと、ロワイエ-デュプレは並々ならぬ忍耐力を発揮してきた。そして、世界中を遠征して集めた逸話の宝庫で筆者を楽しませてくれた。

 彼にインタビューしていてまず印象的だったのは、最初の前提を受け入れられないときに、しばしば質問を覆すことである。私たちが"時代を決定づけた"と思うようなパフォーマンスの多くで、彼は小さい欠点を見つけるのだ。凱旋門賞でのダラカニの勝利はこの眩惑的な芦毛のベストランではないと彼が最初に言ったとき、筆者は椅子から転げ落ちそうになった。

 2013年愛オークス(G1)でのチキータの勝利の話でも似たようなことがあった。彼女は2走前のレース(サンクルー)で、有利にレースを進めていたもののコース外側の生け垣にぶつかり転倒していた。また前走の仏オークス(G1 ディアヌ賞 シャンティイ)では、直線をずっと横にそれながら走ってトレヴの2着となっていた。筆者はロワイエ-デュプレに、カラの広々としたコースは次の目標とするにはふさわしくなかったのではないかと言った。すると彼はまたもや私たちが気づかなかったものを見ていた。

 「あなたは知らないのでしょうが、チキータはサンクルー競馬場から逃げ出そうとして右側に行ったのです。なぜなら彼女は出口に向かっていたのです。2歳のときにロンシャンで左側に行ったときは、シュートを探していましたね」。

 「馬主(故ポール・メイキン氏)は独オークス(G1)に出走させることを強く望んでいました。しかしそれは第一に彼女の価値を高めるものではなかったでしょうし、第二に出口は最後の直線の途中にありました。彼女は間違いなく、またもや横にそれてしまっていたでしょう。カラでは、シュートがウイニングポストを過ぎた直線の終わりにあります。幸いにも、彼女は2歳のときに愛オークスに出走登録していました。このレースの締め切りはとても早いのです。もしそうしていなければ・・・・」。

 もしそうしていなかったときの結果は不明だ。ロワイエ-デュプレは2019年にメイキンの訃報に接し賛辞を求められた際に、メイキンとの関係を"複雑"と表現した。また、豪州のたたき上げの大富豪から受け取った、チキータの扱いを批判した手紙の束をまだ持っている。忘れてはならないのは、チキータがその後ほかのレースに出走せずに売却され、このオーナーブリーダーのためにゴフス社で600万ユーロ(約7億8,000万円)をもたらしたということだ。

 彼女の愛オークスでの勝利については、慎重に語り継がれるべきだろう。

 「ジョニー・ムルタをブッキングしたことはとても重要でした。彼は偉大なジョッキーでした。どの騎乗もとても素晴らしかった。言ってみれば彼の馬術に対する姿勢のようなものですね。彼がどのようにして発馬機に彼女を入れたか、他の馬の後ろにつけたか、確実にリラックスさせたかを覚えています。私はスタンドで"負けてしまうかもしれないが、これはまさに仕事に励む芸術家の姿だ"と自分に言い聞かせました」。

 「彼女は発馬機を出たとき、今にもかかるように見えましたが、彼が以前にもやっていたようにある牝馬の後ろにつけて落ち着かせると、彼女はハミに逆らわなくなりました。私は彼の騎乗にとても感心していたのです。今や彼がとても成功した調教師になったことを目にして嬉しく思っています」。

 チキータの勝利にムルタが果たした役割もさることながら、ロワイエ⁻デュプレの準備はほぼ何かに取りつかれたように綿密であり、彼は神経質なモンジュー産駒とともに飛行機で移動した。

 「シャンティイでは、疲れる遠征に備えるために普段よりも少ない調教しかしませんでした。しかし、レース前に彼女がリラックスしていることが何よりも大事でした。そうでなければ私たちはおしまいだったのです」。

 「オークスの前夜、1時間半から2時間ほど彼女を歩かせました。彼女はモンジュー産駒で、かなり血気盛んでした。だから何度も何度も歩かせました。そしてレース当日の朝も歩かせたのですが、オークスの前にパドックに着いたとき、彼女は頭を下げていました。あれがなければ、勝てなかっただろうと思います」。

 ロワイエ-デュプレは豪州の馬主たちとの仕事はあまりうまくいかないと自ら認めており、2012年メルボルンカップの前にアメリケインの鞍上からジェラルド・モッセを降ろすというジェリー・ライアンの一方的な決定を、「プロのホースマンに対する敬意の欠如」の例として挙げた。

 ロワイエ-デュプレには、そのホースマンシップと、自ら管理する競走馬に関して目利きであることで、自ら勝ち得た名声がある。またステファーヌ・ヴァッテル、ミケル・デルザングル、フランシス・グラファールのキャリアを考えると、ロワイエ-デュプレは人間を育てる素晴らしいトレーナーとも言えるのかもしれない。これらの調教師はすべて彼のアシスタントを経て、それぞれの道を歩みだしたのだ。例によって、彼自身はそうした人々との交友関係を望遠鏡の反対から眺めている。

 「1人ではできないことです。幸運にも何人かのとても優秀なアシスタントに恵まれました。それが人生を変えるのです。彼らは最も長く馬の一番近くにいて、問題があれば警告してくれる人たちなのです」。

 「週に一度、アシスタントと膝を交えて、それぞれの馬について彼らが知っていること、そして私が気になっていることを話すという体制をとっています。そのように会話する機会を持つことで、馬に対する私の考えが固まっていきます。立ち話するだけでは、あまり定着しませんからね」。

 彼のもう1つの主な貢献はもちろん、アガ・カーン殿下の驚異的に深いファミリー(牝系)を利用してきたことである。それは何世代にもわたって培われたものであり、ロワイエ-デュプレが挙げたG1・88勝のかなりの部分の源泉となっている。

 ロワイエ-デュプレはアガ・カーン殿下やその息女のザラ王女との長い協力関係を振り返って、こう語っている。「こういう結果になってとても満足しています。とりわけ、競走馬の調教師になるつもりはまったくありませんでしたから。私の運命は、馬術競技か牧場(1960年代にジャン・クチュリエ夫人のもとでサラブレッドを扱うキャリアをスタートさせたメニル牧場)にあるはずでした」。

 「このような厩舎の調教師になるとは思ってもみませんでした。私の人生において大変な幸運だと思っています。とても優秀な馬を送り出すこの生産プログラムの恩恵を受けてきました。レースで勝つには基本的に、それにふさわしい馬を手に入れることです」。

 「もちろんチャンスを逃したくないですし、それぞれの馬が最大限の可能性を発揮できるようにしたいものです。ただ誰もがミスを犯します。一度ミスをしたらそれをどう修正するかを学ぶことが大切です」。

 ロワイエ-デュプレは他の多くの調教師よりも少ないミスしか犯さなかった。一方、ザルカヴァは彼とオーナーブリーダーの芸術の頂点を極めた。7戦7勝を果たし、うち5勝はG1競走で達成した。2008年凱旋門賞ではロンシャンの密集する馬群の中を華麗なダンスを披露しながら駆け抜けて勝利を手にした。彼女はまさに完璧な競走馬だったのだ。

 「本物のチャンピオンとそれ以外の馬を分ける真の資質とは、とてもすばやく差を広げることだと常に思っています。2完歩ほどのあいだに、相手よりもはるかに速く走れるのです。それこそが本物の"一流馬"なのです」。

 未勝利戦の勝馬からマルセルブーサック賞(G1)優勝馬となるまで、それは文字どおりゴール板の影を飛び越えるような勢いだった。3歳春には、順位が変わらない退屈なレースが続いた。フランスで数々の優秀な3歳牝馬が活躍した年に、トライアル、仏1000ギニー(G1)、仏オークス(G1)をおかしいほどたやすく制したのだ。

 秋のヴェルメイユ賞(G1)は発馬機内でほぼ台無しになりそうになった。ザルカヴァはスタートで完全にしくじってしまったのだ。ロワイエ-デュプレは自らを責めた。しかし彼女はそんなことはお構いなしに初挑戦だった2400mの最後の直線でライバルたちに大差をつけた。

 「仕上がりは完璧ではありませんでしたし、少し未熟だということも分かっていましたので、クリストフ・スミヨンにはあまり急いで逃げないように言いました。もちろん彼女は発馬機の中ではぼんやりしていましたが、そのあとは他馬を圧倒していたので問題にはなりませんでした」。

 そして、大勢のメディア関係者やアガ・カーン殿下の前で、かの悪名高き凱旋門賞前の最後の追い切りを行った。殿下はほぼ間違いなく、実際何を見ているのかを自ら分かっていた数少ない1人だった。

 「ヴェルメイユ賞で本当に優れたパフォーマンスをやってのけたので、調教で走りすぎてしまうのではないかと心配していました。最終追い切りでは他馬の後方を走らせ、彼女は何が求められているのかを理解できず、あまり多くの力を発揮しませんでした。しかし心配していませんでした。彼女が仕上がっていると分かっていたからです」。

 「おかしかったのは誰も気づかなかったことです。多くの人が彼女を併せ馬の相手と混同していたのです。彼女がごく最低限のことしかしなかったことが実際のところ良かったのだと思います」。

 もちろん、まだ多くのチャンピオン馬がいる。自らにとって初の凱旋門賞優勝馬となったダラカニについて、「真の競走馬で、クリストフが彼のことをすごく理解していました」とロワイエ-デュプレは言う。また2006年のプライドによる英チャンピオンS(G1)優勝を「並外れていた」と表現した。

 77歳になったロワイエ-デュプレはのんびりとした長い引退生活を送ることになる。彼はいくらか時間をかけて熟考するだろうが、家族とともに少なくとも当分の間はシャンティイに留まることになるだろう。「サルト地方の魅力を妻に納得してもらえないのです」と彼は言う。

 ものすごく意義深いキャリアだった。彼の蓄積された知恵と馬に関する絶対的な感覚は、今後さまざまな道を辿ることになるだろう。

By Scott Burton

[Racing Post 2021年10月25日「'I was never meant to be a trainer - that's the great good fortune of my life'」]

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