高額で購買したのにほとんど活躍しなかった競走馬(国際)【その他】
世界中のスポーツは、成功するために大枚をはたける裕福な人々によって支配されるようになった。競馬も例外ではない。しかしリスク対報酬比が悲惨なほど崩れることもある。ここではセリに現れた有名な"超高額の大外れ"を10位から紹介しよう。
第10位 ガルドシャンペートル
[2004年 53万ギニー(約9,461万円)]
5歳のガルドシャンペートルがドンカスタースプリングセールのリングに現れるまで、セリで購買された世界最高額の障害競走馬は34万ポンド(約5,610万円)だった。しかし数分のうちに、ガルドシャンペートルはそれをはるかに超える額で落札され、満員のアリーナは"信じられない"といった雰囲気に包まれた。
その2週間ほど前に、ガルドシャンペートルはポール・ニコルズ調教師のもとでノヴィースハードル(G2 エイントリー)を制していた。しかしJ・P・マクマナス氏に購買されてジョンジョ・オニール厩舎に転厩したあと、チェルトナムゴールドカップ(G1)制覇の可能性が期待されていたが、それは決して実現されなかった。10戦して月並みなノヴィースチェイス(カーライル)で勝ったのが、オニール調教師のもとで果たした唯一の勝利である。
その後エンダ・ボルジャー厩舎に移り、クロスカントリーの人気者となったガルドシャンペートルはチェルトナムフェスティバルで2勝したが、生涯獲得賞金は26万2,978ポンド(約4,339万円)。セリでの落札額の半分にしか満たなかった。
第9位 ハイドロジェン
[2012年 250万ギニー(約4億4,625万円)]
ファハド殿下は、ジョン・マグニア氏率いるクールモアスタッドとの争奪戦を制して英ダービー馬オーソライズドの¾弟ハイドロジェンを手に入れた。揺籃期のカタールレーシングの看板的な存在とすることが目的だった。この馬はその年の最高価格1歳馬となった。強気な殿下は「最高の馬を買うためにここへ来て、最高の馬を手に入れました」と語っていた。
あいにく事態は予期せぬ方向に向かってしまった。ハイドロジェンは数々の怪我で2歳シーズンを棒に振った。最も深刻だったのは、馬房の壁を蹴ったときに生じた飛節の怪我である。ピーター・チャップル-ハイム調教師のもとで3歳となり、2014年5月のデビュー戦(ニューマーケット)は6着どまりだった。さらに10ヵ月が経過して、2戦目にしてラストランとなったクラス5の未勝利戦(チェルムスフォード)では5着に終わった。
第8位 セントジェームズスクエア
[2018年 240万ドル(約3億2,400万円)]
名声あるキーンランド9月1歳セールにおいて最高価格馬としてM・V・マグニア氏に競り落とされたウォーフロント産駒は、エイダン・オブライエン調教師のもとで高い目標を掲げて調教に励んだ。しかし平地競走でも、その後に挑戦したハードル競走でも未勝利を脱することができなかった。
オブライエン調教師のもと2歳のときにデビュー戦となる16頭立ての未勝利レース(ネース)で13着という惨めな成績を残したあと、ジョン・ハレー厩舎に転厩した。そして2021年1月、501日ぶりにネースに帰ってきて今度はハードル戦に出走したが、またもや13着だった。
その後、ハードル競走で7着と落馬(Fell)となり、2021年9月に平地に戻ってラストランとなるレースで6着に終わった。
第7位 ノルウェー
[1999年 300万ドル(約4億500万円)]
米国のスーパースター、エーピーインディの半弟には大きな期待が寄せられていた。この馬はキーンランド7月1歳セールでクールモアのチームにより購買されたが、エイダン・オブライエン調教師のもとで6戦してウィナーズサークルに行くような快挙を遂げることはなかった。
2歳のときの唯一の出走となった未勝利戦(フェアリーハウス)での3着は励みになったが、3歳シーズンにキャリアは急降下した。4月~6月に5戦したもののナヴァンの未勝利戦で2着になっただけで、獲得賞金は微々たる1,990ポンド(約33万円)に終わった。
しかしその不吉なキャリアにより思いとどまることなく、クールモアはこの馬名を信頼し続けた。2016年に生まれてノルウェーと名付けられた馬は、2019年愛ダービー(G1)でオブライエン厩舎が1-2-3フィニッシュを決めたときに3着に入ってある種のプライドを回復させることとなった。
第6位 ジャリル
[2005年 970万ドル(約13億950万円)]
モハメド殿下は13年にわたりクールモアの種牡馬やそれらの産駒をボイコットしていた。それが実際に始まったのは、2005年キーンランド9月セールでこの高額なストームキャット産駒を購買するために最大の出費をしたときだ。
当時セリで取引された中で3番目に高額の1歳馬となったジャリルはこうした新たな路線の良い広告塔と到底言えるようなものではなかった。サイード・ビン・スルール調教師のもとで調教を積み、2シーズンにおいてわずか4戦しかせず、リポンの未勝利戦で唯一の勝利を挙げた。そして4歳のときに参戦したドバイカーニバルでは、ナドアルシバのG2競走でグロリアデカンペオン(後のドバイワールドカップ優勝馬)を破りある程度の成績を収めた。
しかしその後9戦したもののふたたび勝利を挙げることはなく、わずか17万5,511ポンド(約2,896万円)の獲得賞金で引退した。
第5位 メイダンシティ
[2006年 1,170万ドル(約15億7,950万円)]
ジャリルを購買してから1年後、モハメド殿下はキーンランド9月セールでこのキングマンボの牡駒をさらに高額で落札し、この馬はセリで取引された中で2番目に高額な1歳馬となった。
2歳のときに成長が遅れて未出走だったこの馬は、サイード・ビン・スルール調教師に管理されて3歳のときについに出走した。3戦2勝を達成したときには将来性が見られたが、グレートヴォルティジャーS(G2)で5頭中5着となったときにクラシック競走で活躍するという期待はただちに水泡に帰した。
その後4戦したが6着が最高であり、微々たる獲得賞金2万4,104ポンド(約398万円)とともにそのキャリアは泡のように消えてしまった。
第4位 マグナス
[2001年 34万ポンド(約5,610万円)]
購買価格はほかと比べるとそれほど高額ではないのかもしれない。しかしフランスのセリで購買されたこの馬はセンセーションを巻き起こした。コートスター(訳注:キングジョージ6世チェイス5勝・チェルトナムゴールドカップ2勝の伝説の障害競走馬)よりもずっと前に障害競走馬として当時の欧州最高価格で購買されたとき、この馬は英国を席捲することが運命づけられていたのだ。
ラテン語で"偉大な"という意味の馬名をもつこのG1ハードル競走優勝馬は、豪快な馬主デヴィッド・ジョンソン氏により購買され、リーディングトレーナーのマーティン・パイプ調教師により管理された。フランスに滞在してパイプ調教師のもとでの初めての出走となったオートゥイユのG2競走を制したとき、幸先の良いスタートを切った。
2001年のクリスマス前にニューベリーにおいて単勝 1.3倍で英国でのデビュー戦に挑んだが、5頭立ての最下位に終わり惨敗した。
英国でさらに3敗を喫し、その着差は合計152½馬身にのぼった。その後フランスに戻って2戦したがいずれも3着内に入れず、競走生活を引退した。つまるところ彼は偉大ではなかったのだ。
第3位 シアトルダンサー
[1985年 1,310万ドル(約17億6,850万円)]
1980年代半ば、当時ヴィンセント・オブライエン調教師が率いた定評ある調教拠点バリードイルと、モハメド殿下率いる中東の新興馬主とのあいだで繰り広げられた出費合戦はピークに達した。キーンランド7月セールで、このニジンスキーの牡駒が1歳馬としては今でも世界記録であり続けている驚異的な価格で購買されたのだ。
ヴィンセント・オブライエン氏、ロバート・サングスター氏、ジョン・マグニア氏を含むバリードイルのパートナーたちはシアトルダンサーの落札に成功した。しかしこの馬はその後の10年が経過する間バリードイル勢力の衰えを象徴する存在と見られるようになった。ガリニュールSとデリンズタウンダービートライアルで優勝し、1987年パリ大賞で2着となったので大外れというわけではなかったが、その購買価格が約束するようなスーパースターとなるにはほど遠かった。
獲得賞金11万1,303ポンド(約1,836万円)で引退し、種牡馬としてケンタッキー、アイルランド、日本、ドイツで供用された。そして1991年レーシングポストトロフィー優勝馬シアトルライムを含むステークス勝馬37頭を送り出した。
第2位 スナーフィダンサー
[1983年 1,020万ドル(約13億7,700万円)]
1980年代に派手にお金が使われる中で、スナーフィダンサーはセリにおける度を過ぎた買い物の代名詞となった。キーンランド7月セールはセンセーショナルな一夜を迎えることとなる。このノーザンダンサーの牡駒をめぐってモハメド殿下とロバート・サングスター氏が史上に名高い競り合いを演じ、1歳馬の世界最高価格が一瞬にして3倍近くまで跳ね上がったのだ。この競り合いを制したのはモハメド殿下である。途方もない高値のため、提示額が8桁に達したところで数字が足りなくなり、セリ会場のスコアボードの明かりが消えた。
ジョン・ダンロップ調教師が手掛けることになったスナーフィダンサーは、恥ずべき存在となった。レースで走るには脚が遅すぎるという理由で、一度も出走することはなかった。ダンロップ調教師はこの馬について、「本当はかわいい馬なのですが、あいにくすごく優秀というわけではないのです」と述べていた。
米国のトップスプリンターであるマイジュリエットと、G1・3着馬リファーズスペシャルの半弟として、スナーフィダンサーは種牡馬となるチャンスを得たが、これも失敗だった。生殖能力に問題があったため、わずか4頭しか産駒を送り出さなかった。
第1位 ザグリーンモンキー
[2006年 1,600万ドル(約21億6,000万円)]
ファシグ・ティプトン社コルダー・ブリーズアップセールでのザグリーンモンキーの驚くべき購買価格は、それまでの2歳最高価格520万ドル(約7億200万円)を超えただけではない。1985年にシアトルダンサーが記録したセリにおける世界最高購買価格1,310万ドル(約17億6,850万円)も打ち破ったのである。
そのわずか7ヵ月前、2005年ファシグ・ティプトン社ケンタッキー7月セールで、 1歳だったこのフォレストリーの牡駒は"わずか"42万5,000ドル(約5,738万円)だった。コルダーでの1ハロンの見事な展示走行が、クールモアとモハメド殿下による熱狂的な競り合いを招いたのである。
9分にわたる激しい競り合いの末、クールモア・パートナーズを代表するデミ・オバーン氏が落札に成功したが、その後ザグリーンモンキーは役立たずだと判明する。
トッド・プレッチャー調教師のもとに送られ、「3着4着4着」の競走成績で引退した。獲得賞金は1万440ドル(約141万円)。フロリダ州の牧場で控えめな種付料5,000ドルで供用されたザグリーンモンキーの初年度の相手は40頭だったが、その後12頭を超えることはなかったという。数少ない注目すべき産駒の中の1頭は、パナマで2015年の牝馬三冠を達成したモンキービジネスである。
By Matt Rennie
(1ポンド=約165円、1ドル=約135円)
(関連記事)海外競馬ニュース 2018年No.26「世界最高落札価格の牡駒、ザグリーンモンキーが14歳で死亡(アメリカ)」
[Racing Post 6月2日「Racing's most expensive flops, including a $10m buy who was 'no bloody good'」]