エリザベス女王陛下の競馬への情熱(イギリス)【その他】
競馬に携わった歴代君主の中で、エリザベス2世女王陛下ほど競馬に精通し夢中になられた君主はおられなかった。
女王の競馬への情熱は誰の目にも明らかであり、血統書や馬格に対する鋭い審美眼をもつ真のプロフェッショナルであられた。
リーディングオーナーに2度輝き、ダービー以外のすべての英国クラシック競走を制覇された。オリオールはダービーで惜しくも2着に敗れたが、女王のご両親の名をもつキングジョージ6世&クイーンエリザベスS(アスコット)で優勝した。
またエリザベス女王は二冠牝馬であるハイクレアとダンファームリンも所有された。後者はシルバージュビリー(即位25周年)にオークスとセントレジャーSを制した。ほかにも、カロッツァ(オークス)、ペルメル(2000ギニー)、エスティメイト(アスコットゴールドカップ)などの傑出した勝馬を所有された。
いつも女王としての務めを最優先にされていたものの、毎年スケジュール帳には最初に6つの日程が書き込まれた。ダービーデーとロイヤルアスコット開催の5日間である。また、サラブレッドのレースだけでなく調教をご覧になること、牧場で繁殖牝馬や仔馬と過ごされることを大きな喜びとされていた。
馬を見る目は天性のもので、一頭一頭見分けることができた。ノルマンディーのアレック・ヘッド氏やケンタッキーのウィル・ファリッシュ氏の牧場を訪れるのを楽しみにされていた。また2011年のアイルランドへの公式訪問のさいには、クールモアなど現地の牧場めぐりがハイライトとなった。
幼いころ、祖父のキングジョージ5世がどのようにして牝馬スカットルが1928年の1000ギニーを制したかを話しているのに聞き入っておられたという。また父のキングジョージ6世はビッグゲームと三冠馬サンチャリオットの活躍のおかげで、1942年のリーディングオーナーになられた。
16歳のときにはご両親とともにフレッド・ダーリン調教師のベックハンプトンステーブル(Beckhampton stables)を訪れ、一流馬の調教を見学された。ビッグゲームに触れたことを光栄に思い、数時間手を洗わなかったという。エリザベス王女はハンプトンコートにあるロイヤルスタッドで繁殖牝馬や仔馬について知識を深められ、競馬場を訪れられるようになって間もない1946年、父が所有するハイペリカムが1000ギニーを制覇するのを目にされた。
エリザベス女王が結婚された1947年、アガ・カーン殿下は結婚祝いとして牝の当歳馬を贈った。アストラカーンと名づけられたこの馬は、ウィリー・スマイス調教師に預けられた。マイルドメイ卿の勧めにより、王女とその母はある障害競走馬を半分ずつ所有し、モナヴィーンと名づけられたこの馬は、ピーター・カザレット厩舎に預託された。
アストラカーンとモナヴィーンは1949年10月に王女の勝負服を背負ってデビューした。モナヴィーンはフォントウェルの障害競走で優勝して王女にとって初めての勝馬となった。この馬は12月にクイーンエリザベスチェイス(ハーストパーク)を制し、1950年グランドナショナルではフリーブーターの5着となったが、そのあと脚部に故障を発症した。
1952年2月の父キングジョージ6世の逝去をうけて即位したエリザベス女王は、生産と競走馬所有を同様の方針で行っていくと宣言した。つまり自家生産馬はニューマーケットのセシル・ボイド-ロックフォート厩舎に預け、ナショナルスタッドの生産馬でレースキャリアのために女王に貸し出された馬["借り馬(ハイヤリング)"と呼ばれることもあった]は1952年末にニューマーケットに移ったノエル・マーレス調教師に預託されることになったのだ。
エリザベス女王が初めて所有したトップクラスの馬はオリオールだった。多くのハイペリオン産駒と同様に、この馬は言うことを聞かなかった。1953年には2000ギニーで5着となったが、リングフィールドダービートライアルでは5馬身差の圧勝を決めた。戴冠式の朝、侍女の1人が目前に迫った式典のことを考えながら"すべて順調ですか?"と尋ねると、女王は"ボイド-ロックフォート調教師がダービーの最終追い切りでオリオールは順調だったと報告するために電話してくれたところです"と答えたという。
その4日後にエプソムで行われたダービーで、オリオールは偉大なチャンピオン、ピンザの4馬身差の2着となった。ピンザの鞍上はサーの称号を与えられたばかりのゴードン・リチャーズだった。オリオールはキングジョージでふたたびピンザの3馬身差の2着となった。セントレジャーSでは折り合いがつかず3着に終わったが、その後のカンバーランドロッジSでは勝利を収めた。
4歳となったオリオールの鞍上はエフ・スミス騎手が務めた。ロイヤルスタッドのマネージャー、チャールズ・ムーア氏が、イラつきがちなこの牡馬は厩舎所属のハリー・カー騎手よりもスミス騎手のほうが合うと判断したからだ。そしてオリオールは自らが欧州最強の古馬であることを見せつけることになる。コロネーションカップを5馬身差で、ハードウィックSを短頭差で制し、キングジョージでは前年を上回るパフォーマンスを見せ、フランスから遠征してきたバモスを下して¾馬身差の勝利を果たしたのだ。
オリオールは女王が所有した最高の牡馬であったうえに、種牡馬としてもチャンピオンとなった。ロイヤルスタッドで供用され、種牡馬ランキングで2回首位に輝いたのだ。王室の勝負服を背負って活躍した産駒は、アプレンティスやホープフルベンチャーなどである。
エリザベス女王が1954年にリーディングオーナーになったのは主にオリオールのおかげだったが、ランドーとコーポラルも賞金獲得に貢献した。ランドー(母サンチャリオット)は、ラウスメモリアルS(ロイヤルアスコット開催)とサセックスSを制した。またエクリプスSで3着となるが、それはサー・ゴードン・リチャーズの現役最後の騎乗となった。一方、コーポラルはニューマーケットフォールSを制し、のちに三冠馬となる同厩舎のメルドを破った唯一の馬となった。
1956年のハイライトは、ハイヴェルトがキングジョージで強豪馬リボーの2着に健闘したことと、アトラスがドンカスターカップで6馬身差の圧勝を収めたことだ。
優良馬にめぐまれ、1957年にエリザベス女王は最高のシーズンを送った。2度目のリーディングオーナーとなったのだ。このシーズンに挙げた30勝のうち12勝は、現在では重賞レベルとされるレースでの勝利だった。
マルベリーハーバーはチェシャーオークスを制して、エプソムのオークスにも出走したが、優勝したのは女王の控えの馬カロッツァだった。鞍上のレスター・ピゴットがお得意の強襲でシルケングライダーをとらえて短頭差で破ったのだ。マーレス調教師が手掛けたカロッツァは、ピゴットが女王にもたらした唯一のクラシック優勝馬となった。
しかしこの驚異的な年の女王の最強の牝馬は、リブルスデールS、ヨークシャーオークス(6馬身差)、パークヒルSを制したアルメリアである。ほかに勝利を挙げた馬には、2つのクラシックトライアルとカンバーランドロッジSを制したドウテル、ニューS(現ノーフォークS)を制したペルメルがいる。
1958年に4歳となったドウテルはオーモンドSでバリーモスを打ち負かしたが、キングジョージではバリーモスがアルメリアとドウテルを2着と3着に破り、自らが覇者であることを証明した。その後、気性の荒い牝馬アルメリアはドンカスターカップに出走した。彼女が折り合ってペースメーカーのアグリーメントを抜かしていれば勝っていたかもしれない。しかし実際は、生涯2勝を挙げるアグリーメントが単勝26倍の衝撃的な初勝利を果たすことになった。
この年の女王が所有した中でひときわ活躍した優良馬はペルメルだ。2000ギニーでペルメルはボイド-ロックフォート厩舎の2番手の馬だった。同じ厩舎に調教で抜群の動きを見せていた本命のボールドイーグルがいたからだ。単勝21倍のペルメルはダグ・スミス騎手を背に、凹地[the Dip 訳注:最後から2番目の1ハロン(下り坂)と最後の1ハロン(上り坂)のあいだに形成された窪んだ土地]で先頭に立ち、メジャーポーションに½馬身差をつけて優勝した。なお、ボールドイーグルは着外に終わった。その後、ペルメルは第1回ロッキンジSを5馬身差で制した。
エリザベス女王は風邪をこじらせておられたためこの2000ギニーを現地で観戦されなかった。しかし彼女にとって、クラシック競走をカロッツァのようなナショナルスタッドからの"借り馬"で優勝するよりも、ペルメルのような自家生産馬で制覇することのほうがいっそう重要な意味を持っていた。
4歳になったペルメルはさらに進化し、ロッキンジSの連覇を果たし、ロイヤルハントカップでは優勝馬に20ポンド(約9kg)もの差があるトップハンデを背負って2着に健闘した。そして1959年のロイヤルアスコット開催で女王は2勝を挙げる。ドウテルの半弟アバヴサスピションがセントジェームズパレスSで、ピンダリ(父ピンザ 母サンチャリオット)がキングエドワード7世Sで勝利を収めたのだ。ピンダリは後にセントレジャーで3着となる。
王室が所有する競走馬の黄金時代は1960年に終わった。女王は外れクジを引いたのかもしれない。サセックスのトム・マソン厩舎に預けた気性の荒い2頭を除いては。
ここから失意と人事異動の10年間が始まった。1937年からロイヤルスタッドのマネージャーだったチャールズ・ムーア氏が1962年に引退した。1964年にピーター・ヘイスティングス-バス調教師が女王の所有馬を管理し始めたが数ヵ月後にがんで亡くなり、アシスタントのイアン・ボールディング氏がキングスクレアステーブルを継ぐことになった。1967年にはウェストイルスリーステーブルを拠点とするディック・ハーン調教師が女王の調教師団の仲間入りを果たした。
1964年にナショナルスタッドが繁殖牝馬と仔馬をすべて売却して種馬場となることが発表された。これはレースキャリアのために女王に貸す若馬がいなくなることを意味していた。
1965年、ボイド-ロックフォート調教師は女王の所有馬で衝撃的なビッグレース2勝を果たした。カニスベイ(父ドウテル)が単勝21倍で臨んだエクリプスSで短頭差の勝利を収め、アプレンティスは5頭立てのヨークシャーカップとグッドウッドカップを人気薄で制したのだ。
最後の"借り馬"、ホープフルベンチャーはマーレス調教師に手掛けられ1967年にプリンセスオブウェールズSを制し、セントレジャーでリボッコの2着に入った。また4歳時にはオーモンドSとハードウィックSを制し、サンクルー大賞では偉大なヴェイグリーノーブルを3着に抑え最高の活躍を見せた。
1968年シーズンの終わりに、2人の主要トレーナーが去ってしまったことで、王室の競馬事業に決定的な変化が訪れた。すなわち、サーの称号を与えられたばかりのボイド-ロックフォート調教師が引退し、マーレス調教師にはもはやナショナルスタッドの生産馬が預けられなくなったのだ。
その後の20年間、ハーン調教師とボールディング調教師が王室の主要トレーナーとして、ロイヤルスタッドで生産された1歳馬を預かることになった。1970年初頭には、ポーチェスター卿(後のカーナーヴォン伯爵)が女王のレーシングマネージャーに就任した。著名なオーナーブリーダーだったポーチェスター卿は、長年にわたって幼なじみだったエリザベス女王に助言してきており、その協力関係は正式なものとなった。同時にマイケル・オズワルド氏がロイヤルスタッドのマネージャーに就任した。
1973年には王室の2頭の牝馬、エスコリアルとハイクレアがニューベリーの未勝利戦をそれぞれ制した。その後、エスコリアルはアスコットの第1回フィリーズマイル(第1回目だけ"グリーンシールドS"として開催)を制した。一方、ハイクレアはクラシック競走を2勝するまでに成長した。
1974年、ハイペリカムを2代母とするハイクレアはステップレースを使わずに1000ギニーに挑んで勝利を収めた。ブリンカーをつけたこの牝馬はポリガミーを短頭差で抑えた。その後のオークスでは、ポリガミーが優勝を果たしてエスコリアルは着外となった。
エプソムには合わないという理由から、ハイクレアはオークスを回避した。その代わりに仏オークス(ディアヌ賞)に挑み、コンテスドロワールを2馬身差で破って優勝した。エリザベス女王は現地シャンティイで観戦されハイクレアの海外での大勝利を目にされた。その夜、お祝いをするためにウィンザー城で家族ぐるみのパーティーが開かれ、ディック・ハーン調教師とジョー・マーサー騎手、そしてそれぞれの配偶者が招かれた。
その後、ハイクレアはキングジョージでダリアの2着となった。女王のもう1頭のクラシック競走2勝馬、ダンファームリンはメイヒルSとフィリーズマイルでそれぞれ2着に入り、1977年の初戦であるプリティポリーS(ニューマーケット)でハーン厩舎の新たなジョッキー、ウィリー・カーソン騎手を背に勝利を収めた。
オークスで1番人気に支持されていたダータルはレース前に脱走し、出走を取りやめざるをえなかった。レースではダンファームリンが戸惑いながら走り続け、残り100ヤードで先頭に立ち、フリーズザシークレットに¾馬身差をつけて優勝した。その後、ゆっくりとした展開になったヨークシャーオークスでは3着に入った。
セントレジャーSでは、ヴィンセント・オブライエン調教師が手掛けたアレジッドが1番人気の1倍台のオッズで挑んだ。しかし鞍上のレスター・ピゴットが長い直線で早くに先頭に立ったことで、厳しいスタミナ戦となり、ダンファームリンは毅然として粘って先頭に立ち、1½馬身差で勝利した。
こうしてダンファームリンは、後に凱旋門賞を連覇するアレッジドを破った唯一の馬になった。これは女王の所有馬のどの快挙にも勝る最高のパフォーマンスであり、キングジョージでのオリオールの勝利やロイヤルハントカップでのペルメルの2着を上回るものだった。
さらにセントレジャーSの次のレース、メイヒルSではダンファームリンの半妹タータンピンパーネルが優勝した。この年は女王のシルヴァージュビリー(即位25周年)であり、公務による多忙スケジュールのため、女王はダンファームリンの2つのクラシック制覇のいずれも現地でごらんになれなかった。それでも1956年にドンカスターで1歳のストローマ(ダンファームリンの祖母、カニスベイの母でもある)を1,150ギニーで購買した女王陛下にとって、これらの勝利は特に嬉しいものだった。
その3週間後、ダンファームリンは距離が短い凱旋門賞でアレッジドの4着に終わった。そして4歳時には一勝もできなかった。
その後、女王は4年間でダービーに3頭を送り込まれることになる。まず1978年には、アルメリアを2代母とするイングリッシュハーバー。この馬はプレドミネートSでイールドブルボンを破っていたが、エプソムではしくじった。
ハイクレアの初仔ミルフォードは、1979年のリングフィールドダービートライアルを楽勝したものの、第200回ダービーでは同じ厩舎のトロイの10着に終わった。しかし、その後のプリンセスオブウェールズSでは勝利を収めることになる。そして1981年のダービーでは、チャーチパレードがシャーガーに遠く引き離された5着に終わった。
その年には、ハイクレアの娘ハイトオブファッションがメイヒルSとフィリーズマイルを制した。そして1982年にルーペSで優勝し、オークスを回避して挑んだプリンセスオブウェールズSでは古馬を徹底的に打ち負かした。
その後、ハイトオブファッションは150万ポンドと言われる価格でハムダン殿下に売却された。女王はその代金のおかげでソベル家とウェインストック家からウェストイルスリーステーブルを購入されたと言われている。当時は妥当な決断と思われたが、ハイトオブファッションはその後女王が生産した中で最高の繁殖牝馬となったのに対し、ウェストイルスリーの所有権は大きな問題を引き起こすことになった。
ハイトオブファッションはナシュワンという傑出したチャンピオンだけでなくアンフワインやネイエフといった優良馬、その牝系を受け継ぐことになる牝馬を送り出した。もし彼女がロイヤルスタッドにとどまっていたら、これほど秀抜な仔を優秀な種牡馬との交配により送り出せなかっただろう。というのは、そのための種付料を王室の予算ではまかなえなかったと思われるからだ。しかし彼女はかなりの資産となっていたはずだ。
ディック・ハーン調教師は1984年に狩猟中の転落事故で下半身不随となり、1988年6月には心臓の手術を受けた。8月に調教活動が継続できるかについて懸念が広がる中、妻のシーラはカーナーヴォン卿から、ウェストイルスリーステーブルの賃貸契約は更新されず1989年11月で終わると告げられた。しかしその後、ハーン調教師は永久に住み続けることができると伝えられた。
ハーン調教師の解雇は、女王が後任にウィリアム・ヘイスティングス-バス調教師を指名したと公式発表される1989年3月まで明らかにされなかった。この新しい調教師は、ピーター・ヘイスティングス-バス調教師の息子であり、イアン・ボールディング調教師の義兄弟である。また彼の洗礼の立会人はカーナーヴォン卿だった。
一般の人々はハーン調教師の処遇に対する怒りを深めた。それはナシュワンが2000ギニーで優勝し、車椅子に乗ったハーン調教師がウィナーズサークルで歓声に包まれたときに浮き彫りとなった。ナシュワンがダービー・エクリプスS・キングジョージで勝利を収めたことで、ハーン調教師の能力が衰えていないことはいっそう強く証明された。しかもこの結果がハイトオブファッションの仔によりもたらされたことで、いっそうばつの悪いものになった。
カーナーヴォン卿が批判の矢面に立たされたのは当然のことだが、熱心な王室信奉者の多い競馬界であっても、女王の評判は傷つけられた。女王は英国で最も偉大な調教師の1人が一番弱っているときに解雇したことで、人が落ち込んでいるときに追い出すようなことをする人間という受け止め方をされた。
この評判は、ハーン調教師が1990年11月までウェストイルスリーで活動を続けられるという発表がなされたことによって、ほんのわずかではあるが和らいだ。
ちょうどこの騒動が収まったころ、ヘイスティングス-バス調教師は王室の馬でG1を制した。1989年8月にシカゴで行われたアーリントンハンデキャップ(G1)で、トップハンデよりも1ストーン(6.35 kg)以上軽い最低負担重量のアンノウンクォンティティがわずか4頭のライバルを相手に優勝したのだ。
ウェストイルスリーに移った後、ヘイスティングス-バス調教師(1990年にハンティンドン伯爵となる)はさらに数頭の女王の所有馬を重賞勝馬に育てあげ、そのほとんどが海外で勝利を収めた。しかし彼は1999年に調教活動をやめ、女王は厩舎をミック・シャノン調教師に売却した。
この年、サー・マイケル・スタウト調教師とリチャード・ハノン調教師(父)がいずれも初めて王室の馬を出走させた。以前はボイド-ロックフォート調教師が活動を行っていたフリーメーソンロッジを拠点とするスタウト調教師はフライトオブファンシーを手掛けたが、この馬は2001年オークスで不運にも2着となった。
女王陛下はカーナーヴォン卿とエリザベス王太后を亡くされ悲痛な喪失感にさいなまれられていた。2001年のカーナーヴォン卿の死により、生涯の友情に終止符が打たれた。そして彼の義理の息子であるジョン・ウォレン氏が実質上の後任としてレーシングマネージャーに就任した。
2002年のエリザベス王太后の逝去をうけて、女王は母の馬を引き継ぐことになり、モナヴィーン以来の障害競走馬を所有することになった。その中でニッキー・ヘンダーソン調教師が管理したバーバーズショップが最も優秀な馬で、2009年チェルトナムゴールドカップでコートスターの7着に入った。
今日に至るまで競馬界における女王の地位は弱まってきた。1950年代には2度リーディングオーナーになったが、21世紀は脇役にすぎなくなった。その主な理由は、ランドー・カロッツァ・ホープフルベンチャーなど多くの名馬を送り出したナショナルスタッドが生産事業の停止を決断したこと、そして王室の競馬・生産事業への固有の財政的制約があったことである。
女王の競馬活動は自給自足によるものでなければならず、そう見えるようにしなければならなかった。もし彼女が自分の趣味に没頭し、とりわけ1歳馬を購買するために資産の一部を売却していたら、世間から非難を浴びたことだろう。
また北アイルランド問題により、ロイヤルスタッドが欧州で最高級であるアイルランドの種牡馬を使うことは1973年から20年以上の間は政治的に不可能だった。
ハイトオブファッションは生涯で会える最も優秀な繁殖牝馬だったが、競馬に数十億ポンドを費やしてきた中東のオーナーブリーダーの1人に売却された。しかし、そうすることで英国競馬の水準は高まったのである。
またクールモアの台頭により、トップクラスのレースはさらに熾烈なものになった。それゆえ女王陛下は起死回生をはかるため有力なオーナーブリーダーとさまざまな取引を行われ、その抜け目なさがカールトンハウスやエスティメイトを生んだのである。
ダーレーにより生産されたカールトンハウスは王室の勝負服を背負って出走した。モハメド殿下との馬の交換が成立したのだ。2011年にダンテS(G2)を制してダービーと愛ダービーで1番人気に推されたが、それぞれ3着と4着に終わった。
4歳時にはブリガディアジェラードS(G3)を制し、シドニーのガイ・ウォーターハウス厩舎に移籍して王室の馬として初めて豪州で調教されたが、その後勝利を挙げることはなかった。
アガ・カーン殿下により生産されたエスティメイトはダイヤモンドジュビリー(即位60周年)にクイーンズヴァーズ(G2 ロイヤルアスコット開催)を楽勝した。翌年の2013年ゴールドカップ(G1)ではスタミナと勇気を見せつけ首差で勝利し、女王は馬主としてこのレースを制した最初の現役君主になった。
女王がG1を制したのは24年前のアンノウンクォンティティ以来であり、英国では36年前のダンファームリン以来だった。またエスティメイトは5歳時にドンカスターカップを制した。
カールトンハウスとエスティメイトはスタウト調教師に手掛けられた。ダーレーが生産したダートマウスもスタウト厩舎に所属し、2016年にハードウィックS(G2)で傑出馬ハイランドリールを破り、キングジョージではハイランドリールの3着に入った。
エリザベス女王は馬主として質はともかく量の面で、ちょっとした運命の再生を楽しまれた。2014年には30勝を挙げられ1957年の自己ベストにならび、2019年と2021年には平地と障害を合わせてそれぞれ36勝と39勝を挙げられ、それを上回る成績を収められた。
By John Randall
[Racing Post 2022年9月8日「Heartfelt passion for racing evident and enduring throughout her reign」]