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2025年01月09日  - No.1 - 2

いじめと女性蔑視を乗り越えたウィルトシャー騎手の物語(イギリス)【その他】


 カレン・ウィルトシャーはノッティンヒルのカフェの奥に座り、96歳の父親とカフェラテを飲んでいる。彼女のサクセスストーリーが競馬界外部はいうまでもなく、競馬サークル内でもほとんど知られていないことを考えると、影が薄いのもうなずける。しかしここにいるのは、目を見張るような偉業を成し遂げた女性なのである。

 ウィルトシャーは1978年、プロの女性騎手として初めて英国の平地競走で勝利を挙げた。この先駆的な快挙はほとんど語られていないが、現在スポーツライターのニック・タウンゼントの協力により、ウィルトシャーは歴史のかなたに忘れ去られてしまいそうな軌跡を自ら詳しく語り始めた。最近発表した著書『女の子に居場所はない(No Place For A Girl)』の内容は確かに衝撃的だ。

 男性中心の世界に足を踏み入れると、理不尽な女性蔑視、偏見、いじめに晒されるが、彼女は屈することなく、最終的に歴史的勝利を達成することで男性騎手に引けをとらないことを証明した。

 これほど重要な快挙は競馬のマーケティング担当にとって、レイチェル・ブラックモアのグランドナショナル制覇に匹敵するほど垂涎の贈り物だったはずだ。しかし当時を振り返ると、女性の権利が広く社会で注目される時代になっていたが、競馬界はその状況を飲み込もうとしなかった。

 ウィルトシャーはこう語る。「(競馬界の女性先駆者の)リストから私の名前が外されたままになっていることには、腹立たしく思うこともあります。勝利を収めたときにインタビューを受けましたが、翌日のスポーティングライフ紙は私の初勝利をたった二行で伝えました。しかも、"英国の平地競走でプロの女性騎手が初勝利"という記述はありませんでした。その頃、女性がスポーツで活躍することはあまり歓迎されず、宣伝したくなかったのでしょう」。

 1970年代の見習騎手は調教師と契約することで、事実上、独立性を奪われていた。ウィルトシャーのボス、第二次世界大戦の退役軍人だったビル・ワイトマン調教師ももちろん厄介ごとを好まなかった。

 「翌日、ボスと厩舎長がやって来て『取材を受けることになるだろうね。でも契約を交わしているのだから、同意なしに話してもらっては困るよ』と言うのです。彼らは私がメディアに話すことをいっさい望まず、女性だからといってメディアが特別扱いするのを恐れていましたね。ビルは『ジョッキークラブが嫌がっているのだよ』と言いました」。

 デイリーテレグラフ紙とデイリーメール紙が正式に取材を申し込んできたが、彼女は規則に従いそのオファーを断った。「後悔しています。だけど解雇される可能性もあったのです。当時、調教師は見習騎手を完全に管理下に置きたがり、レース中に指示どおり騎乗しないとクビにすることもあったのです」と彼女は述べた。

 60代のワイトマンはがちがちの伝統主義者だったが、時代を先取りする面もあった。競馬界が女性騎手と男性騎手を競わせることをためらっていたにもかかわらず、彼は女性の乗り手にとても感銘を受けていた。

 ウィルトシャーはこう語った。「幸運にもレースで騎乗させてもらうことができました。どの調教師もそんなチャンスをくれなかったでしょう。ビルが若いころ、まだ多くの人が移動手段に馬を使っていました。彼はいつも女性の乗り方に感心していて、その手腕を評価していました。男女差はないと気づいていましたが、当時はどの調教師もそれを見抜けていませんでした」。

 ウィルトシャーは19歳でハンプシャーにあるワイトマン厩舎に入った。特別扱いはないだろうが、馬を調教で走らせているうちに、いずれレースで騎乗させてくれるだろうと考えていた。彼女が唯一主張していたのは、男性騎手と平等な条件で競いたいということだった。

 「最初の面接でビルに、『女性騎手限定レースやアマチュアレースには絶対に乗りません。プロのジョッキーと競うことを望んでいるのです』と言いました。機会均等法案はすで可決されていたので、男性騎手と競い合えるはずだと考えていました」。

 女子修道院の学校に通っていたウィルトシャーにとって男ばかりの厩舎に入るのは厳しい試練だったに違いない。彼女は初日、何もわかっておらず、まるでポニークラブに行くために整えられたような赤いスピットファイアのスポーツカーで乗りつけた。すぐに、新しい同僚から嘲笑された。

 たびたび厩舎で孤立していたことについて、彼女はこう語った。「かなり残酷なことで、耐えるしかありませんでしたね。状況が理解できませんでした。子どものころに障害飛越競技やクロスカントリーに出場して男の子と対等に競い、ジェンダーの違いなど考えたこともなかったのです。競馬界に入ってショックでした。じっと耐えて、慣れるように努力しなければなりませんでした。キャリアを危うくしたくなかったのです」。

 男性の世界に分け入ろうとしたことにより、彼女が遭遇したいじめは中傷を受ける以上のものだった。「彼らは嫌がらせをし、卑猥に私を馬房の隅に追い詰めようとしました。監視カメラなどありませんでしたが、そこにはいつ蹴ってきてもおかしくない競走馬がいたのです。調教走路では鞭で叩かれたことが何度もあります」と彼女は詳しく説明した。

 しかしウィルトシャーは自らの立場を貫いた。ワイトマン厩舎で嫌がらせをする人に抵抗するため、修道女に教わった柔道の技をしばしば駆使したのだ。床の上に倒れ込んだのは一人や二人ではなかった。「逃げ出そうとは思いませんでしたね。そのようなことがすべて、私を奮起させたのです」。

 ワイトマンは1977年5月13日、ウィルトシャーをニューベリー競馬場の見習騎手戦でデビューさせた。女性騎手に対する偏見を考えて、ワイトマンは彼女がレースで一人前であることを証明するまで、女性であることを隠したがった。そのため彼女はショートカットにし、化粧もせず、レースカードには「K・ウィルトシャー」と記載された。パークウォークに騎乗し6着に終わったが、その経験は望んでいたとおり充実したものであり、彼女はさらに上を目指す意欲を燃え上がらせた。

 そしてブライトン競馬場でプロの騎手と初めて対戦することになり、ザゴールドストーンという馬とコンビを組んだ。ワイトマンはこの馬が残りのシーズンに向けて態勢を整えるようなレースをすることを望んでおり、5着という成績に大喜びだった。

 「そのあとの検量室で、当時ビルのために騎乗していたタフィ・トーマスが、ザゴールドストーンはよく走ったが、勝てるほど調子が良かったら自分が乗せてもらっていただろうと言いました」。

 「厩舎に帰るなり、ビルの書斎に押しかけました。そしてタフィの言ったことが本当かどうか問い詰めたのです。ただこちらをじっと見ていたので、本当だとわかりました。私は『ここにいては時間が無駄になる』と言って、車道まで駆け下りました。彼は私を追ってきて、できることはなんでもすると約束してくれました。だからザゴールドストーンが勝てるぐらい調子のいいときに騎乗を任されました。ビルは私が独り立ちしようとしていたのを尊重してくれたのだと思います」。

 ウィルトシャーはザゴールドストーンの鞍上を任されつづけ、2走あとの1978年9月14日のソールズベリー競馬場での一戦で競馬史に名を刻んだ。ザゴールドストーンは他馬のあいだをすり抜け、2½馬身差の勝利を収めた。ウィルトシャーはついに男性騎手を負かしたのだ。

 ウィルトシャーは、「タイミング良く先頭に立って末脚を炸裂させなければなりませんでした。そのときの感触といったら素晴らしいものでした。あらゆる嫌がらせに耐えた甲斐がありましたし、もう一度やってみたいですね」と22歳だった当時を振り返った。

 ウィルトシャーがこの重要な快挙を果たしてから競馬は大きく進歩した。しかし、昨年の英国の平地騎手ランキングの20位以内に入った女性騎手がホリー・ドイルとサフィー・オズボーンの二人だけだったのは、進歩があまりに遅いという彼女の考えをゆるぎないものにした。

 「3年ほど前には競馬学校の生徒の50%が女性でしたが、最近では75%にまで上昇したと読みました。しかし、競馬場での女性ジョッキーの数には直結していません。女性ジョッキーは全体の30%を占めるだろうと思っていたのですが、まだほんの一握りで、トップレベルになるともっと少ないのです」。

 ウィルトシャーは男女平等を求めるキャンペーンを続けており、女性ジョッキーの地位向上を目指すBHA(英国競馬統括機構)にとって目の上のたんこぶとなっている。

 「トップクラスの女性ジョッキーは今や重賞競走で騎乗していますが、クラシック競走では騎乗機会を得られていません。女性ジョッキーをクラシックで騎乗させた場合、調教師と馬主に賞金を5~10%上乗せするべきだと考えます。BHAはその資金を調達するよう努力すべきでしょう。それが当たり前のことになるまでの短期的な措置で十分です」。

 「私が求めているのは平等な機会です。騎乗機会を与えてくれるのは調教師と馬主です。だからこそ最高峰のレースに女性ジョッキーを乗せることへのインセンティブについて常に考えてきました。またより多くの騎手が誕生することも必要で、見習騎手は皆、年に一回は競馬場で騎乗するべきです。なぜならその時こそ、素晴らしい腕を持っていることを見せるチャンスだからです」。

 「状況が変わることをただ願っています。そして平等な機会を求めていっそう闘わなければなりません。なぜなら、あっけなく後退してしまう可能性があるからです」。

 ただウィルトシャーが歴史的快挙を遂げるために耐え忍んだことを考えると、いかなる後退も茶番劇となるだろう。

By Lewis Porteous

[Racing Post 2024年11月26日
「'It was worth all the abuse' - meet the jockey who overcame bullying and misogyny to make racing history」]


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