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2025年01月23日  - No.3 - 1

サー・マイケル・スタウト調教師の引退に寄せて1(イギリス)【その他】


 2024年、史上最も偉大な調教師の1人であるサー・マイケル・スタウト調教師が、そのキャリアに終わりを告げた。彼の調教師としての最後の日々は、初期のそれに比べるとややもの静かなものであった。それもある意味仕方のないことである。なぜなら、英国で調教師の頂点に上り詰めたあらゆる人物の道のりの中で、スタウト調教師のそれは最も多彩といえるものだったからである。

 スタウト調教師が競馬の世界に入るきっかけは偶然だった。17世紀後半からカリブ海の島に住んでいた先祖を持つ両親のもとにバルバドスで生まれたスタウト調教師は、5歳のとき、父親が警察副署長に昇進したのを機に、首都ブリッジタウンのはずれにあるギャリソンに家族で移り住んだ。

 引っ越して間もなく、スタウト調教師の母親は幼い息子をギャリソンサバンナ競馬場に初めて連れて行った。

 2010年のインタビューの中で、スタウト調教師はこう語っている。「その時のことを今でも鮮明に覚えています。競馬場で馬が走っている様子を見て、馬の毛色、動き、走る音、その運動能力に魅了されました。母にまた連れて行ってもらうのが待ち遠しかったです。当時は開催が少なかったので、競馬場に行くのは特別な事でした」。

 その後の人生を形作るような競馬場での体験が、スタウト少年の心に火をつけた。レースが開催されるたびに、スタウト少年はサバンナ競馬場に面した庭の塀の向こうをいつも覗き込んでいた。

 スタウト調教師は次のように話していた。「馬の虜になったのです。馬に関わりたいという気持ちが揺らぐことは決してありませんでした。馬に夢中になっていたので、馬(競馬場)の近くに住んでいたことは幸運でした」。

 6年後、父親が警察署長になると、一家は騎馬警察隊に隣接する本部へ引っ越した。それは乗馬を学ぶ絶好の機会だった。

 「12歳の私は、馬に取りつかれていました。新しい騎馬部隊が導入されたとき、警察隊で馬に乗り始め、そこからすべてが始まりました」とスタウト調教師は振り返る。

 そして彼は、バルバドスダービーを三度制したイギリス人、フレディ・サーケル調教師の厩舎を手伝うようになった。また、バルバドスとトリニダードのラジオ局でレース実況をする仕事にも就き、学校が休みの日には幾度もトリニダードのサンタロサパーク競馬場で過ごした。

 トリニダードで活躍の場を広げた新進気鋭のヘッドライナーはスタウト調教師だけではなかった。彼のラジオ出演は、若き日のジャーナリスト、トレバー・マクドナルド氏の出演と重なり、マクドナルド氏はその後、ITVの番組『News At Ten』の司会者を務めるまでになった。マクドナルド氏は、スタウト調教師がナイトの称号を授与された1年後の1999年に同じくナイトの称号を授与されている。

 スタウト調教師自身のキャリアも似たような道をたどっていたかもしれない。1964年、19歳の彼はBBCの競馬実況チームに入ろうとイギリスに渡った。自己紹介のためにパット・ローハン調教師のノースヨークシャーの厩舎に到着したのは12月の真冬で、雪が降っていた。

 もともとアイルランド出身だったローハン一家は、西インド諸島司法省で働いていたスタウト調教師の父の友人のコーク郡における隣人だった。そのつながりは、スタウト調教師にとって後に非常に重要なものとなる。彼はBBCのポストには選ばれず、代わりにジュリアン・ウィルソン氏がそのポストに就いた。

 ウィルソン氏がどのようにBBCの面接官たちとともにニューベリー競馬場に赴いたかについては数えきれないエピソードがある。最終選考に残った6人はニューベリー競馬場で順番に実況を行うことになっていた。ウィルソン氏は面接官たちと知り合いになるために、自ら一等列車の切符を買って乗り込み、スタウト調教師と他の志願者は後部車両に乗った。障害競走の実況をしなければならなかったこともまた、スタウト調教師には不利だっただろう。バルバドスでは障害競走が行われていないからだ。

 こうして、行き詰まったスタウト調教師はローハン調教師の厩舎を手伝わせてもらえないかと頼んだ。そして彼は3年以上在籍した。

 「ローハン師のところで数週間過ごした後、私は馬の調教をしたいと強く思うようになりました。どの部分に惹かれたのか分かりませんが、私は競馬の調教という分野に常に魅了されていました」。

 ローハン厩舎は多くの勝利を挙げ、スタウト調教師は幸せな時間を過ごした。ローハン調教師は1968年には52勝を挙げ、リーディングトレーナーに君臨した。そしてその間、スタウト調教師は常に楽しみながら仕事をしていた。彼はいつもローハン調教師の教えてくれることに感謝の気持ちでいっぱいで、その気持ちはローハン調教師も同じだった。

 ローハン調教師は後に以下のように述べた。「スタウト調教師は優秀で、とても観察力があり、才能があることが分かりました。彼は厩舎のことは何でもやりました。狩猟にも行きましたが、車のブレーキが故障して、そちらはそれっきりでした。3年後、私は彼にニューマーケットに行くべきだと言いました。彼は決して振り返らず進み続けました」。

 ニューマーケットでの生活に苦難がなかったわけではない。スタウト調教師は、チャンピオンジョッキー5回の経歴を持ち1968年に開業したダグ・スミス調教師の厩舎に入った。その年の暮れ、ジャック・ジャービス調教師が亡くなり、彼のパトロンであったローズベリー卿は、既に預託している馬に加えてパークロッジ厩舎の馬の調教をスミス調教師に依頼した。スミス調教師はこれに同意し、その過程でパークロッジ厩舎の馬をスタウト調教師に委託した。

 スタウト調教師にとっては複雑な幸運であった。彼の指揮の下、ローズベリー卿のスリーピングパートナー(Sleeping Partner)が1969年のオークス(G1)とリブルスデールS(G2)を制し、その後クルーナー(Crooner)もジャージーS(G3)を勝って、パークロッジ厩舎はすぐにその影響力を示した。スタウト調教師はクラシック制覇とロイヤルアスコットのダブル制覇に大きく貢献したが、それに対して贈られる無言の称賛にスミス調教師は嫉妬し、スタウト調教師は厩舎を追いだされてしまった。

 スタウト調教師は傷つき、失業状態になったかもしれないが、彼の有能さはもう知れ渡っていた。彼は25歳という若さにしては類まれな才能を発揮し、トム・ジョーンズ調教師に助手として迎えられた。ジョーンズ厩舎のもとで2シーズン足らずを過ごし、1971年末に独立し自身の厩舎を開いた。しかし、彼が去る前には、ジョーンズ調教師はアテネウッド(Athens Wood)でセントレジャー(G1)を制した。

 スタウト調教師は、ウォーレンヒルの麓のカドランドコテージ厩舎を借りて、15頭の馬(うち12頭は2歳馬)を入厩させた。古馬の中には、スタウト調教師が現役馬セールにおいて父の代理人として5,400ギニーで手に入れたサンダル(Sandal 5歳・せん)も含まれていた。

By Julian Muscat

[The Big Read 2024年12月28日
「Barbados beginnings and BBC rejection: the extraordinarily eclectic roots of Sir Michael Stoute's life in racing]


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