サー・マイケル・スタウト調教師の引退に寄せて2(イギリス)【その他】
大変うれしいことに、1972年4月、レスター・ピゴット騎乗のサンダル(Sandal)がギニー開催のハンデ競走を制し、スタウト調教師は初めてウイナーズサークルに立った。ローハン調教師の1頭を破っての勝利だった。これを機に彼は軌道に乗った。シーズンが終わるまでに、彼は15頭の管理馬から13頭の勝ち馬を出し、カドランド厩舎に収まらないくらいに成長した。もっと大きな施設が必要になった。
厩舎規模の問題は、ローハン氏に師事した時代にノースヨークシャーで知り合った妻のパットが、ビーチハースト厩舎を購入する手助けをしてくれたことで解決した。結果はすぐに表れ、1973年、スタウト調教師の才能がさらに際立つようになった。
その年の2歳馬の勝ち馬にはブルーカシミア(Blue Cashmere)とアルファダマス(Alphadamus)がいた。両馬とも3歳時には4つのレースを勝った。アルファダマスはグッドウッド競馬場のスチュワーズカップで快勝を収め、ブルーカシミアはエアゴールドカップ(エア競馬場)を制した。英国で最も熾烈な2つのハンデ戦で、自分の発言に責任を持って行動するルーキーが風穴を開けた。
これらの勝利で、スタウト調教師は2つの点が気になった。ビーチハースト厩舎が有利なハンデを狙ってレースをえり好みする厩舎という汚名を着せられないようにすることと、あるいはスプリンターの調教師として型にはまらないようにすることに、気を使った。
ブルーカシミアは1974年のナンソープSと1975年のテンプルSを制するなど、ハンデ戦勝ち馬の立場から成長したが、例年になく乾燥した1976年の夏、スタウト調教師はその才能を存分に発揮する絶好の機会を得た。
ウィルトシャーのベッカンプトンを拠点とするジェレミー・トゥリー調教師は、乾燥した芝で馬を思うように調教できないことに苛立ち、インターミッション(Intermission)とブライトフィニッシュ(Bright Finish)の2頭をニューマーケットのスタウト調教師の元へ送った。そこでは、ロングヒルにウッドチップの調教場が新設されたばかりであった。2頭はスタウト調教師のもとで力をつけた。インターミッションはケンブリッジシャーHを、ブライトフィニッシュはジョッキークラブカップを制した。
「あのときは、ジェレミーの寛大さのおかげでした。若いうちは、物事を好転させるためにちょっとした運が必要ですが、あれはまさにそうした出来事でした」とスタウト氏は振り返った。
「ブライトフィニッシュが勝ったとき、オーナーブリーダーのスヴェン・ハンソン氏はニューマーケットにいました。馬が素晴らしくよく見えたと言われたのですが、彼は整える必要がないほど美しい毛並みをしていたので、それもそのはずでした。そのご縁からフェアサリニア(Fair Salinia)を預けてもらい、1978年のオークスを勝ってそれが私のクラシック初勝利馬となりました。そこからさらに多くの馬主の依頼が来るようになり、ちょっとした幸運が雪だるま式に大きくなったのです」。
フェアサリニアはその後、ソルバス(Sorbus)の失格により愛オークスを勝ち、ヨークシャーオークスも制した。その活躍は、アガ・カーン殿下の目にも停まることとなった。殿下は1960年に父のアリー・カーン王子を自動車事故で亡くし、一族の有名な血統を受け継いでいた。当時、アリー王子はフランス競馬に力を注いでいたが、息子は英国に再び進出することが、自身の牧場と急成長している生産の利益に最も適うと認識していた。1978年末にかけて、彼はスタウト調教師に多くの1歳馬を送りこんだ。
これは、スタウト調教師が懸命に取り組んできたことが結実したものだ。彼が頂点に立つことを運命づけられていたのは明らかで、その目標に向けてたゆまぬ努力が続けられた。調教技術を磨くため、あらゆる手段を模索した。世界陸上の金メダリスト(1500m)、スティーブ・クラム氏など著名なランナーやそのコーチと何時間も話をして、馬とアスリートのトレーニングにおける相乗効果の可能性を探った。
スタウト調教師は、1980年代初頭に、インターバルトレーニングの概念を実験的に取り入れていた。マーティン・パイプ調教師が自身の管理する障害馬に導入するよりも前のことである。彼は思慮深く、細かいディテールにこだわり、写真撮影のような抜群の記憶力を持ち、常に馬を第一に考える人だった。ヘッドギアを着けた馬を走らせることはめったになく、自分の管理馬の実力発揮の意志に対して疑問が呈される場合には怒りを示した。
彼はまた、ニューマーケットを愛するようになった。広大で開けた土地は、彼が育ったギャリソンの地形とはまさに対照的だった。
「ニューマーケットは、私が1968年にここに来て以来、大きく変わりました」と彼は2010年に語っている。「当時は調教中の馬は700頭ほどで、この町が扱える頭数はそれくらいでした。人工馬場の調教コースを導入したおかげで町は大きく発展しましたが、私は今でもこの町が大好きです。世界中どこを探しても、これ以上の施設はないでしょう」。
スタウト調教師を頂点に押し上げることになる馬は、1979年にアガ・カーン殿下が送り込んだ1歳馬の第2陣の中から登場した。そこには一頭、顔に立派な白斑をもつ鹿毛の牡駒がいた。名をシャーガー(Shergar)といった。父グレートネフュー(Great Nephew)、母シャルミーン(Sharmeen)という血統で、母は比類なきムムタズマハル(Mumtaz Mahal)の子孫である。
シャーガーはジグソーパズルの最後のピースだった。3歳だった1981年シーズンを、この馬はまばゆいばかりの白い光を放つ彗星のごとく駆け抜けた。サンダウントライアル、チェスターヴァーズ、英ダービー、愛ダービー、キングジョージを制し、2着につけた着差の合計は40馬身に及んだ。エプソム競馬場での10馬身差の勝利は、今でも英ダービー史上最大の着差の記録となっている。
シャーガーによって、1981年にスタウト調教師は初めてのリーディングトレーナーを確実なものとした。同馬は、以後数年間のあいだにスタウト調教師がアガ・カーン殿下にもたらした数々の重賞勝ち馬のうちの一頭であった。シャーガーの後には、ダリアプール(Daliapour)、ドユーン(Doyoun)、カラニシ(Kalanisi)、シャルダリ(Shardari)、シャーラスタニ(Shahrastani)などが続き、スタウト調教師の名声は、競馬界の大馬主たちの注目を集めて放さないようになっていた。
彼はマクトゥーム家の最も有名な3兄弟の馬を預かったほか、チーヴリーパークスタッド、ワインストック氏のバリーマコルスタッド、カリド・アブドゥラ殿下、そしてエリザベス2世からも馬を預かり調教を行った。彼が獲得した10回のリーディングトレーナーの称号は、偉大なライバルであったサー・ヘンリー・セシル調教師の記録に匹敵するものであった。
2024年に引退するまでに、スタウト調教師はあらゆる面においてターフの真の巨匠となった。生まれ故郷のバルバドスで、庭の塀越しに将来自分の人生を豊かにしてくれることになる生き物を一目見ようと覗き込んでいた若者の未来を想像できた人は、それほど多くはなかっただろう。
By Julian Muscat
[The Big Read 2024年12月28日
「Barbados beginnings and BBC rejection: the extraordinarily eclectic roots of Sir Michael Stoute's life in racing]