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2025年02月13日  - No.6 - 1

アガ・カーン殿下、緻密な戦略が生み出した功績(国際)【その他】


 故アガ・カーン殿下の築いた帝国が皆の目指すスタンダードになったことが、彼の競馬界における影響力のすべてを物語っている。その水準に近づいたのは、カリド・アブドゥラ殿下のジャドモントファームと、ジョン・マグナー氏が率いるクールモア・シンジケートだけである。

 マグナー氏とは対照的に、アガ・カーン殿下はアブドゥラ殿下と同様、1960年に競馬業界に足を踏み入れた時はまだまだ未熟だった。父アリー・カーン王子が亡くなったとき、彼はわずか23歳で、それまでサラブレッドビジネスに携わったこともなかったが、アガ・カーン・スタッドを驚異的な高みへと押し上げた。彼のあくなき卓越性の追求は、50年後の2009年の凱旋門賞開催週にG1を5勝、G2を2勝し、頂点に達した。

 その功績の真の評価は、彼が競い合った中東の権力者たちとは違い、財政支出に制約がある中で成し遂げたということだ。2,000万人のイスマイル派イスラム教徒のスピリチュアル指導者であったアガ・カーン殿下は、毎年赤字を出さぬよう懸命に努力しており、それが達成できなければ、自身の保有する最も価値のある繁殖牝馬を売却した。牧場経営への影響を危惧する者も多かったが、繁殖牝馬の層の厚さでその穴を埋めることに成功した。

 英国の競馬ファンは、アイルランドやフランスの競馬ファンに比べると、アガ・カーン殿下の馬を目にする機会は圧倒的に少なかった。アガ・カーン殿下は競馬産業に参入した直後、すべての馬をフランスに移し、彼のオペレーションの活動拠点とした。彼が英国で再び出走させたのは1979年のことで、そのころには、彼の専属調教師であり師匠でもあったシャンティイ在住フランソワ・マテ調教師が老境に差し掛かっていた。

 1989年には英オークスをアリーサ(Aliysa)で制覇するが、レース後検体から禁止薬物「カンフル」の代謝物が検出され失格になるという「アリーサ事件」が発生した。その渦中、アガ・カーン殿下は1990年に自らの競走馬をイギリスから引き上げた。険悪な別れとなったが、アガ・カーン殿下は10年の間に英国競馬界に数々のスターホースを送り出し、シャーガー(Shergar)を含む3頭のダービー馬を誕生させた。

 アリーサの一件はアガ・カーン殿下には衝撃であり積極的な法的手段を取った。とりわけニューマーケット競走馬検査所の検査手順の有効性に異議を唱えたが、そのことは英ジョッキークラブを大いに失望させた。

 また、アガ・カーン殿下が依頼した高額な科学的調査の結果、カンフルは能力向上につながる薬物ではないことが判明した。それにもかかわらず、スカンジナビアの新聞社がアガ・カーン殿下の競走馬のドーピング疑惑を記事にして叩いた際、英ジョッキークラブの幹部間には、アガ・カーンは強引に振る舞っているという印象を持つものが多かった。

 アガ・カーンが宗教的な指導者であったことの影響で、常に正しい行動を取る事にこだわったのは間違いなく、その結果英国の調教師たちとの関係を複雑なものにした。1995年、ジョッキークラブがドーピングの検査方法を見直した後、彼は再度英国に馬を送り込んだが、これも悪い結果に終わった。

 2000年、再び2度の禁止薬物検査での不合格があり、アガ・カーン殿下はルカ・クマーニ調教師が検査プロトコルを遵守していなかったと公に非難した。1988年の英ダービーをカヤージ(Kahyasi)で制したものの、ベッドフォードロッジを拠点とするクマーニ調教師に預けていた30頭を即座に転厩させた。

 反対に、2015年にジョン・オックス調教師との24年にわたる関係を断ち切った時、関係者は多くを語らなかった。アイルランドを拠点とするオックス師は、アラムシャー(Alamshar)、アザムール(Azamour)、そして2000年英ダービー馬シンダー(Sinndar)といった名馬をアガ・カーン殿下のために育て上げた。殿下は1989年にオックス調教師に最初の馬を送り込み、翌年にはアリーサの一件もあり同調教師に預託する頭数を大幅に増やしていた。

 それにしても、アガ・カーン殿下が優秀な生産馬を頻繁に輩出したことに驚嘆しないわけにはいかない。アガ・カーン殿下は、1960年に一族の競走馬生産事業を継続するかどうかさえ迷っていた。その点で、父の死から1カ月後にコロネーションカップを制したプチトエトワール(Petite Etoile)の活躍に心を動かされたのは間違いない。

 しかし、父親の死亡後の相続と税金の整理をしていたアガ・カーン殿下が最初にしたことのひとつは、残されたあらゆる「価値のある、注目される資産」を売り払うことだった。3年前に自らの父親も祖父が亡くなったときに同じことをした。「生産事業がどれほど脆弱になっていたのか、まったく理解していませんでした」と、アガ・カーン殿下は2010年のインタビューで語っている。

 アガ・カーン殿下の功績で最も輝かしかったのが、生産事業を復活させたその手法である。彼は厳格なコスト管理プログラムを導入し、各馬の「生産性」を一目で把握できるようにした。そして、所有馬の情報を全て電子化したのは恐らく彼が最初の人物だろう。

 その一方で、フランソワ・デュプレ氏やマルセル・ブサック氏など他の著名なオーナーブリーダーの活躍を熱心に観察し、学んだ。のちに両者の事業が先細りになった際、1977年と1978年にそれぞれを買収することとなる。これらの買収には再建への明確なビジョンがあり、マテ調教師の全面的な監修のもとで行われた。

 実際のところは、マテ調教師はデュプレ氏の資産購入を控えるように助言していたが、デュプレ氏が生産したトップヴィル(Top Ville)が1979年の仏ダービーを制し、マテ調教師はすぐに恩恵を受けることになった。

 ブサック氏の経営も似たようなもので、ブサック氏の財政難と連動するかのように牧場も衰退し、繁殖牝馬の大半を自己所有の種牡馬と繁殖させることを余儀なくされた。アガ・カーン殿下はブサック氏の資産を購入する前に、かつての栄光を取り戻すために必要な資金を計算していた。

 2005年、アガ・カーン殿下が自らの繁殖牝馬に新しい血統を求めてジャン=リュック・ラガルデール氏の資産を買収した時にも似たようなことがあった。その一方で、彼は最強の競走馬を生産するというとらえどころのない探求心を認識していた。2010年、彼はこう語っている。「模範すべきモデルなどありません。ある方法が他の方法より効果的だとは必ずしも言えないのです」。

 アガ・カーン殿下の生産馬は、セリに出されると激しい争奪戦となった。その代表馬がダルシャーン(Darshaan)の11歳の半姉ダララ(Darara)で、1994年にロイド=ウェバー卿夫妻が47万ギニー(約8,900万円)で購入した。ダララはリワイルディング(Rewilding)、ダーレミ(Dar Re Mi 、2018年最優秀2歳馬トゥーダーンホットの母)など多くの活躍馬を輩出した。

 一見、魅力的でない血統背景の馬がのちに大成功を収めることもあった。1985年、カーステン・ラウジング氏とソニア・ロジャース氏は、ブライトン競馬場でいたってふつうに未勝利戦を勝った2歳馬アルカバを19,000ギニー(約360万円)で購入した。アルカバ(Alruccaba)はG1馬ラストセカンド(Last Second、仏2000ギニーなどG1を2勝したオージールールズの母)、アルエット(Alouette 、G1英チャンピオンステークスを連覇したアルボラーダ、G1ドイツ賞勝馬アルバノヴァの母)、ジュード(Jude 、G1馬クォータームーン、イエスタデイの母)を輩出し、一時代を築いた。

 実際、アガ・カーン殿下が手掛けた血統は近代競馬のいたるところに存在し、血統評論家トニー・モリス氏は2017年に次のように語っている。「私はこれを証明するために必要な全ての調査をしたわけではないですが、近年活躍している競走馬の血統背景にアガ・カーンの痕跡がない馬は世界中を探してもいないと思います。かなりの金額を賭けてもいいです」。

 アガ・カーン殿下が間違いなくそうであったように、ピュアなものを貫こうとする人にとっては、純粋に競馬で成績を残すことで自らの手法が正当化されるのが一番だ。2009年、アランディ(カドラン賞)、ロザナラ(マルセルブサック賞)、シャラナヤ(オペラ賞)、シユーニ(ジャン・リュック・ラガルデール賞)、ヴァンヤール(フォレ賞)がG1勝ちを、ダルヤカナ(ロワイヤリュー賞)とマニハー(ショードネイ賞)がG2勝ちを重ねたロンシャンでの忘れられない凱旋門賞ウィークエンドは、その最たる例だった。

 アガ・カーン殿下自身はこう分析していた。「アガ・カーンと関わる調教師、騎手、生産牧場が、全てあの場に集結していました。そして、全ての人間が尽力し、正しい尽力の仕方をしました。それは計り知れない満足感でした」。

 生涯の仕事に対して、これ以上の賛辞はないだろう。

By Julian Muscat

(1ギニー=190円)

[racingpost.com 2025年2月5日

「The Aga Khan: a purist whose meticulous methods were magnificently vindicated on the racecourse」]


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