2003年にケンタッキーダービー(G1)とプリークネスS(G1)を制したファニーサイドは、疝痛の合併症のため23歳で死んだ。
ファニーサイド(父ディストーテッドヒューマー)は15年前からケンタッキーホースパークのチャンピオンの殿堂(Hall of Champions)で繋養されていた。遺体は火葬されそこに埋葬される。ファニーサイドは現役時代にバークレー・タグ調教師のもとで38戦11勝(2着6回、3着8回)の成績をあげた。2007年に引退したこのせん馬の獲得賞金は352万9,412ドル(約4億9,412万円)に上った。
馬主であるサッカトガステーブルの一員であり経営を担当するジャクソン・ノールトン氏は定期的にファニーサイドを訪ね、チャンピオンの殿堂でセッションを開催することもあった。ファンを前にファニーサイドが二冠を達成した思い出深い春について話し、オーナーとしてどのようなスリルを体験したかを直接伝えていたのだ。
サッカトガステーブルは7月16日(日)、こうツイートした。「今朝ファニーサイドの訃報に接して心を痛めています。ケンタッキーダービーとプリークネスSを制覇した根性あるファニーサイドは、とてつもない走りを見せてくれました。彼に素晴らしい引退生活を送らせてくれたケンタッキーホースパークに本当に感謝しています。彼がいなくなって寂しくなるというのは控えめな表現に思えるほどです」。
ノールトン氏は本誌(ブラッドホース誌)に対し、「彼は私の人生を変えました」と語った。
ケンタッキーホースパークも喪失感を覚えていることだろう。昨年チャンピオンの殿堂のマネージャーであるロブ・ウィリス氏がファニーサイドのクラシック競走での勝利について語る中で、"競馬ファンも競馬にあまり詳しくない人も、サッカトガステーブルのパートナーたちがダービーなどのビッグレースを見に行くためにスクールバスで移動していたことを思い出すことだろう"と話していた。
「ファニーサイドはこれまでホースパークに繋養された中で最も有名で人気のある馬でした。多くの人をここに迎えて、スクールバスの話や、ファニーサイドの馬主になるために高校時代の仲間10人が集まったという話を始めます。すると観衆の中にはいつも、『ああ、その馬を知っている』と言う人がいるのです」。
「そのような人たちを迎えて、競馬について話し始めると、彼らは生産やサラブレッドビジネス全般についてもっと話したがります。そういう様子を見たり、彼らがすごく満足して帰っていくのを見たりするのは本当に楽しいです」。
ニューヨーク州産のファニーサイドは2歳シーズンに無敗を守った。ベルモントパーク競馬場でのデビュー戦を勝利で飾り、その後バートラムFボンガードSとスリーピーホロウSを制したのだ。
3歳シーズンではルイジアナダービー(G2)で2着となり、ウッドメモリアルS(G1)でもエンパイアメーカーに½馬身差をつけられ2着に終わったが、その後絶好のタイミングでピークに達した。ケンタッキーダービーで1番人気のエンパイアメーカーを1¾馬身差で撃退し雪辱を果たしたのだ。この勝利でファニーサイドは1929年のクライドヴァンデュッセン以来のせん馬のダービー馬となった。そしてファニーサイドは、後に殿堂入りを果たすことになる主戦ジョッキーのホセ・サントス騎手の導きで、プリークネスSでライバルたちを撃沈させ、直線で後続を引き離して9¾馬身差の勝利を決めた。
サントス元騎手は7月16日(日)、こうツイートした。「ファニーサイド、君は僕の家族だけでなく、競馬界にとっても大きな存在だった。その根性、意志の強さ、勝利への意欲、そして誰も予想しないようなチャンピオンになったことで、君は多くの人々の記憶に残るだろう」。
「僕は君のことを、家族にもたらしてくれた数々の瞬間ゆえに思い出すだろう。君は僕にとって家族の一員だ。ついていない日があっても、車に乗って1時間で君に会いに行けると思うと、とても安心できたんだ。それが無くなったのは辛いけど、君がくれた思い出と君への愛情は一生失わないよ。チャンピオンよ、高く飛べ。君は言葉にできないほど大切な存在だ。愛しているよ、ファニー」。
三冠達成にはわずかに及ばなかった。ベルモントS(G1)ではエンパイアメーカーの3着に終わったのだ。ファニーサイドはハスケル招待H(G1)で3着となり、BCクラシック(G1 サンタアニタパーク)では掲示板に載ることもなく3歳シーズンを終えた。
ダービー優勝後、タグ調教師の助手でファニーサイドの調教での攻馬手を務めたロビン・スマレン氏は、調教師が才能ある馬を手に入れたことを知っていたと回想した。
「バークレーはニューヨークを拠点としていて、最初からこの馬は特別だと言っていました。あらゆることをたやすくこなし、競馬場では何もかもを抜かしていきました。でも調教するのが難しくなったのです。当時私はデラウェアパーク競馬場にいて、バークレーは90ポンド(約41㎏)のフリーランスの乗り手を何人かファニーサイドに乗せていました。そしてある日サラトガ競馬場で暴走してしまって脛を打ってしまったのです。それ以来、調教には私以外乗らなくなりました。それから彼を立ち直らせ、仕事に取り掛かるための準備ができました」。
4歳シーズンにはドンH(G1)とニューオリンズH(G2)で3着となり、4月にエクセルシオールBCハンデキャップ(G3 アケダクト)で優勝した。夏にはマサチューセッツH(G2)とサラトガBCハンデキャップ(G2)で2着に入り、サバーバンH(G1)では3着となった。その後、ジョッキークラブゴールドカップ(G1 ベルモントパーク)ではもう1つのG1勝利を手に入れた。そしてBCクラシック(ロンスターパーク)では掲示板を外してしまい1年を終えることとなった。
7歳まで現役を続けたファニーサイドは、さらにステークス競走を3勝することになる。2006年にキングスポイントH(アケダクト)とドミニオンデーS(ウッドバイン)を制し、最後のシーズンとなる2007年にはウォッズワースメモリアルHで3馬身差の勝利を決めたのだ。
ファニーサイドはウィンスターファームにより生産された。母はベルズグッドサイド(父スルーアサイド)。1歳のときに2001年ファシグ・ティプトン社ニューヨーク・プリファード1歳セールに上場され、トニー・エヴェラード氏により2万2,000ドル(約308万円)で購買された。エヴェラード氏はファニーサイドの初期調教を行い、その後サッカトガステーブルの代理人を務めていたタグ調教師に7万5,000ドル(約1,050万円)で売却した。
ファニーサイドは2歳、3歳、そして古馬になってから、合計3回ニューヨークの最優秀馬に輝いた。2002年から2004年にかけてはニューヨークの年度代表馬に選出されている。
By Tim Wilkin
(1ドル=約140円)
[bloodhorse.com 2023年7月16日「2003 Kentucky Derby Winner Funny Cide Dies at 23」]