1. グレゴリー・ペックとグランドナショナルの出会い
ハリウッドの名優グレゴリー・ペック氏は1950年、グランドナショナル(エイントリー競馬場)を初めて観戦した。同氏はその時すでにアカデミー賞に4度ノミネートされていたが、受賞したことはなかった。1963年4月8日、『アラバマ物語』(1962)の弁護士アティカス・フィンチ役で5度目となるノミネートを受け、ついに主演男優賞を受賞した。それは、同氏の所有馬オーウェンズセッジ(Owen's Sedge 勝負服は紺)がパット・ターフィ(Pat Taaffe)騎手を背にグランドナショナルで7着となったわずか9日後のことだった。
2. グランドナショナルで活躍したグレゴリー・ペックの所有馬
ペック氏は、所有馬ディファレントクラス(Different Class)が優勝を逃した2回のグランドナショナルを現地で観戦した。ピーター・カザレット調教師に管理されていた同馬はチェルトナムフェスティバルのノヴィス競走を制していたが、フォイナヴォン(Foinavon)が優勝する1967年グランドナショナルで馬群に飲み込まれた。その翌年に1番人気で臨んだ1968年グランドナショナルでは、ゴールまで障害をあと3つ残すところで、競馬場のアナウンサーのマイケル・セス-スミス(Michael Seth-Smith)氏は「デヴィッド・モールド騎手はまだ仕掛けておらず、異なるクラス(Different Class)には達していない模様です!」という名実況をした。当時8歳だったディファレントクラスは、優勝馬レッドアリゲーター(Red Alligator)から遠く離され3着となった。
3. スティーヴン・スピルバーグ監督が競走馬を共同で所有
スティーヴン・スピルバーグ監督は、馬主グループ"ビスケットステーブルズパートナーシップ(Biscuit Stables partnership)"の一員として、ケンタッキーダービーの有力馬アッツホワットアイムトークンバウト(Atswhatimtalknbout)の所有権10%を購買したと言われている。この馬主グループは、アカデミー賞にノミネートされた『シービスケット』(2003)の撮影中に結成された。プロデューサーのフランク・マーシャル氏とキャスリーン・ケネディ氏、そして監督・脚本家のゲイリー・ロス氏もこのグループのメンバーだった。アッツホワットアイムトークンバウトはサンフェリペS(G2)で2着、サンタアニタダービー(G1)で4着となり、2003年ケンタッキーダービー(G1)でもファニーサイド(Funny Cide)の4着となった。なお、スピルバーグ監督は、『シンドラーのリスト』(1993)と『プライベートライアン』(1998)でアカデミー監督賞を受賞している。
4. 『ダンス・ウィズ・ウルブス』製作時に馬主になったケヴィン・コスナー
ケヴィン・コスナー氏は、『ダンス・ウィズ・ウルブス』(1990)のプロデューサーであるジム・ウィルソン氏に誘われて馬主となった。この映画はアカデミー賞7部門を受賞し、コスナー氏は監督賞を受賞した。2005年、コスナー氏とウィルソン氏は再びコンビを組んで、ラフィット・ピンカイ・ジュニア騎手に関するドキュメンタリー映画『ラフィット:勝つことがすべて(Laffit: all about winning)』を製作した。2015年のESPNのポッドキャストの競馬番組『インザゲート(In the Gate)』のインタビューにおいて、コスナー氏は競馬にまつわる伝統に魅力を感じると述べ、「馬が三冠競走の二冠に挑戦するようなときには観戦しています」と語った。
5. エリザベス・テイラーの6番目の夫は熱心な競馬支援者
名女優エリザベス・テイラー氏の実生活での競馬との関わりは、『緑園の天使』(1945)よりもはるかに幸運なものである。同氏の6番目の夫ジョン・ウォーナー氏(米国の上院議員)は、バージニア州の馬主・生産者の強力な支援者であり、名馬ミルリーフの馬主ポール・メロン氏が義父だったこともある。ウォーナー氏が所有したアニュアルミーティング(Annual Meeting)は、障害競走のバージニアゴールドカップで2勝している。馬主の言葉を借りれば、"バージニアの未開拓地出身の年老いて痩せこけた悪党"のような馬だった。一方、エリザベス・テイラー氏は『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(1966)と『バターフィールド8』(1960)でアカデミー主演女優賞を受賞している。
6. 馬主としても活躍する2人の英国人俳優
2人の英国人有名俳優は馬主として成功しているが、それがアカデミー賞受賞の幸運をもたらすわけではなさそうだ。アカデミー賞において故アルバート・フィニー氏は5度、ジュディ・デンチ氏は7度ノミネートされたが、2人とも黄金のオスカー像を持ち帰ったことがない。
7. デルマー競馬場創設に協力したビング・クロスビー
歌手・俳優のビング・クロスビー氏は、コメディアンのオリヴァー・ハーディ氏や俳優のゲイリー・クーパー氏などとともにデルマー競馬場(カリフォルニア州サンディエゴ)の創設のために資金援助を行った。そして、同競馬場のテーマ曲『ターフと波が出会う場所(Where The Turf Meets The Surf)』をレコーディングした。クロスビー氏がボブ・ホープ氏とドロシー・ラムーア氏と一緒に歌ってコメディーを演じた『珍道中シリーズ』(1940~1952)は人々の記憶に残っている。映画『我が道を往く』(1944)の神父チャック・オマリー役でクロスビー氏はアカデミー主演男優賞を受賞した。勝てない馬主として有名だった同氏は、ゲイリー・クーパー氏からオスカー像を受け取るときにこう言った。「ケンタッキーダービーを優勝するほどには驚きませんね」。
8. ハリウッドパーク競馬場の創設メンバーとなった大物プロデューサー
『オズの魔法使い』(1939)など多くの作品を残したプロデューサーのマーヴィン・ルロイ氏は、ハリウッドパーク競馬場の創設メンバーであり長年理事を務めた。ルロイ氏は義父ハリー・ワーナー氏(ワーナーブラザーズ社創設者の1人)とパートナーシップを組み、W・R・ランチ社(W-R Ranch)として優秀な馬を所有した。その中には、ビングクロスビーH優勝馬ワントントニー(One Ton Tony)やサンタカタリーナHとマリブSを制したハニーアリバイ(Honey Alibi)がいた。ルロイ氏は1976年、プロデューサーとしての功績を認められ、アカデミー賞の1つであるアーヴィング・G・タルバーグ賞を受賞した。
9. 名曲『雨にぬれても』の作曲者はオーナーブリーダーとしても成功
作曲家バート・バカラック氏は、『明日に向って撃て!』(1969)の挿入歌『雨にぬれても』でアカデミー歌曲賞を受賞した(同氏は同じ映画の主題歌でアカデミー作曲賞、『ミスター・アーサー』(1981)の主題歌でアカデミー歌曲賞を受賞している)。バカラック氏はオーナーブリーダーとしても大成功し、ニール・ダイヤモンド氏のために書いた曲にちなんで名付けた同氏の自家生産馬ハートライトナンバーワン(Heartlight No. One)は、1983年米国最優秀3歳牝馬としてエクリプス賞を獲得した。1994年にはソウルオブザマター(Soul Of The Matter)がケンタッキーダービーで5着となり、その翌年3月の第1回ドバイワールドカップで優勝馬シガーの½馬身差の2着となったことで、競馬史上特筆すべき地位を獲得した。
10. 引退馬施設オールドフレンズを支援する俳優たち
バカラック氏のアフタヌーンディーライツ(Afternoon Deelites)は現在、ケンタッキー州ジョージタウンの引退馬施設オールドフレンズに繋養されている。この施設は、ボストングローブ紙の元映画評論家マイケル・ブローウェン(Michael Blowen)氏により創設された。オールドフレンズに資金援助している有名人の中にはアカデミー賞を受賞したアンジェリカ・ヒューストン氏とジャック・ニコルソン氏がいる。この2人はオールドフレンズのワインのラベルのためにスケッチを提供している。
By Scott Burton
[Racing Post 2019年2月17日「10 Things You Might not Know about...Racing and the Oscars」]