海外競馬情報 2020年09月18日 - No.9 - 4
ニジンスキーはいかにして伝説の英国三冠馬になったか(イギリス)【その他】

 人生には永久に記憶に刻み込まれる日があるものだ。1989年5月3日(水)はまさにそのような日だった。彼は10年ものあいだキャプション付きの一連の写真に添えられた1つの名前にすぎなかったが、今まさに私の目の前に現れ生命を宿した。

 ケンタッキー州のクレイボーンファームの種牡馬厩舎の一角に私たちは案内された。厩舎内馬道を歩き、数々の名馬の住処である馬房の前を通った。そこに暮らしていたのは、セクレタリアト、ミスタープロスペクター、ダンジグ、サーアイヴァーなどである。それらの馬はすべて放牧場に出されており、出会うのに10年を要したあの馬もそうだった。

 私たちは厩舎の一番端の出口から出たときに彼を見た。放牧場にいた彼は私のすぐ左にいた。存在感があふれ、その豊かな鹿毛の脇腹は日光を受けて輝いていた。ダンサーのような稀有な優雅さで動き、実際それは名前の由来になっている。すると、彼は顔を向け、ニジンスキーだと間違いなく分かる額のハート形の白斑を私たちに見せた。

 私がニジンスキーに思い入れがあるのにはいくつかの理由があった。彼の産駒であるゴールデンフリースが1982年の英ダービーを圧勝したときには、かなり儲けさせてもらった。それに、1985年にロバート・サングスター氏が1歳のニジンスキー産駒に魅了され、共同出資者とともにその馬を1,310万ドルで落札したときには、驚きのあまりたじろいだ。しかし、ニジンスキーを初めて見て魔法にかかったような状態になった主な理由は、彼が三冠を達成していたからだった。

 "三冠"は競馬の世界で一番心に響く言葉だ。説明などいらないし、強調する必要もない。私のように競馬一家の出身ではない者にとって、"三冠"は馬の偉大さを問う試金石だ。畏怖の念も起こさせる。

 ニジンスキーは50年前、セントレジャーを制して三冠達成の偉業を成し遂げた。競馬界がひどく混乱していた第一次世界大戦中に三冠を達成したポマーン・ゲイクルセイダー・ゲインズボローを含めたとしても、1853年にウエストオーストラリアンが1頭目の三冠馬となってから167年間でこの快挙を成し遂げた馬はわずか15頭だ。

 さまざまな競走距離での卓越性をはかるにあたり、三冠競走ほど純粋な定義はない。だからこそ、三冠の価値を引き下げることは茶番である。それは、商業主義に突き動かされた"競走馬のスピード重視"を受け継ぐものであり、セントレジャーを弱体化させ、ダービーと同じようなものにしてしまう脅威となってきた。

 それゆえ、細かい事にこだわり大切なものが捨てられてきた。新たに競馬に興味を持った人々は、競馬の豊かな歴史や過去の名馬について読むだろう。そして、"三冠"という言葉を目にして、それらが何を象徴しているのかを知り、驚いて腕組みをするだろう。私はこれまでに千回以上その名前をタイプしたに違いないが、それでもなお今も"ニジンスキー"とタイプするときにワクワクする。

 多くの人々がニジンスキーの魅力のとりこになった。エリザベス女王は1984年に初めてクレイボーンファームを訪れたとき、セス・ハンコック会長と挨拶を交わすのもそこそこに、「ニジンスキーを拝見できますか?」と尋ねたほどだ。

 この燦然たる午後に、ニジンスキーは壮麗の極みでそこにいた。22歳になっていたために、背中がわずかに下がっていたが、紛れもなくニジンスキーだった。まるで自らの領土を見渡すように、誇らしげに、好奇に満ちて頭を豊かになった首の上に持ち上げた。

 そしてなぜかははっきり分からないが、彼の尊大な性格が顔をのぞかせた。ニジンスキーが尻尾を空の方にピンと伸ばしながら速度を上げて放牧地の向こう側に駆け寄った。その先にいた偉大な種牡馬プライベートアカウントは、柵ごしにその様子をじっと見ていた。

 ニジンスキーは、前肢でジャブを打ち、時々後肢で立ち上がりながら、プライベートアカウントの前で舞い踊って旋回した。そして彼らを隔てている柵のいたるところを駆け回り、頭を振って、口をゆがめた。プライベートアカウントはニジンスキーを追い掛けながら興奮していった。体調が良好なときでも不機嫌な種牡馬だったが、このときは最悪の状態で、口は泡立ち、たっぷり汗をかいていた。

 ニジンスキーは、決して怖気づかなかった。ぶっきらぼうな種牡馬管理者は噛みタバコをムシャムシャ噛みながら「いつもこのとおりです」と言った。ニジンスキーは競走馬としての輝かしいキャリアでよくやったように、相手を茶化していた。

 ニジンスキーのキャリアは、1970年セントレジャーで三冠を達成したときに絶頂を極めた。クールモアのヴィンセント・オブライエン調教師に手掛けられ、2歳時にデビュー戦のアーンS(カラ競馬場)をめずらしいほど平然と制したときから、それはほぼ運命づけられていた。

 彼はそのシーズンを難なくこなし、デューハーストSでの華々しい勝利で締めくくり、成績を5戦5勝とした。そして、2歳馬の国際格付けの先駆けだったフリーハンデキャップのランキングでは首位に立った。

 レスター・ピゴットはデューハーストSで初めてニジンスキーに騎乗した。彼はこのノーザンダンサー産駒に強く魅せられていたが、初騎乗のときに鋭い観察を行っていた。

 ピゴットは後にこう語っている。「ニジンスキーが私に語りかけることはないでしょう。一度も語りかけてきたことがありません。初めて会ったとき、彼ははるかかなたを見ているような目をしてきました。まるで、私の存在などまったく無視しているかのようでした」。

 アイルランドの主戦騎手リアム・ウォードを背にグラッドネスSを制して、ニジンスキーは一冠目の英2000ギニー(ニューマーケット競馬場)に備えた。そして、再びピゴットとコンビを組んだ英2000ギニーでは、単勝オッズ1.57倍の期待を背負いながらも、気ままに走ってイエローゴッドに2½馬身差をつけて優勝した。

 二冠目の英ダービーでは、ニジンスキーはフランスの牡馬ジルに抜かされ鞍上から慎重に抑えられたが、前走と同じ2½馬身差で楽勝した。生来口数の少ないピゴットでさえも快活に「ニジンスキーが勝ったダービーは、競馬史において屈指のレースです。ニジンスキーは間違いなく、最強ダービー馬の1頭です」と述べた。

 愛ダービーではウォードが手綱を取った。ニジンスキーは勢いよく走り、メドウビルを3馬身引き離して優勝した。その5週間後のキングジョージ6世&クイーンエリザベスS(アスコット競馬場)で、ピゴットは平然と最高の騎乗をした。

 ニジンスキーが前年のダービー馬ブレイクニーをやすやすと負かしたので、騎手はほとんど動くことなく手堅い2馬身差の勝利を収めた。後にピゴットは「おそらく、彼にとってそれまでで最高のレースでした。1頭の馬にあれほどまで感銘を受けたことはありません」と振り返っている。賛辞を送ることなどほとんどない男からのそのような褒め言葉を読んでいると、新たな競馬ファンはいかにしてこの物語に魅惑されずにいられようか?

 アスコットからの道はすべて、セントレジャーが開催されるドンカスター競馬場に通じている。しかし競走での成績が良かったのは、オブライエン調教師とそのチームが彼をそこに連れて行くためにいくつかの橋を渡ってきたからだ。

 ニジンスキーはかんしゃく持ちだった。クレイボーンの放牧場で私たちが目にした彼の立ち上がり方は、若い牡駒であったときの姿をしのばせた。オブライエン調教師は厩舎の馬房から出ることすらもひどく嫌がったニジンスキーのために、最高の乗り手を選んでいた。しばらく彼はその故郷にちなんで"怒りっぽいカナダ人"という名で知られていた。

 ニジンスキーは朝の調教中に促されたとおりに動くが、中断させようとすると攻撃的な態度を見せる。また、致命的になりうる疝痛の発作を起こしがちだった。ダービー前日に彼はその発作に襲われたが、手摘みの草・重炭酸ソーダ・ふすまが腸閉塞を軽減するのに役立った。

 その日から、クールモアを縁の下で支え続ける功労者デミ・オバーン獣医師がニジンスキーの遠征に同行するようになった。これはすべて、ニジンスキーを常に最高のスタッフで固めるというオブライエン調教師の決意の表れだった。フランケルのように、ニジンスキーも世話をする人が変われば実力を発揮できなくなるかもしれなかった。

 しかしキングジョージの後、まったく違う困難がニジンスキーを襲った。彼は皮膚の真菌感染症である白癬を患い、馬体の大部分の皮膚がただれた。鞍と腹帯を着けるのは不可能だった。白癬は炎症を起こしやすい小さい皮膚潰瘍を進行させる。そのためニジンスキーは曳き運動しかできなかった。

 その段階で、オブライエン調教師はあまり心配していなかった。ニジンスキーの次のレースとして10月初めの凱旋門賞に照準を合わせており、万全に準備するのに十分に長い間隔があったからだ。しかしそのとき、ニジンスキーの馬主チャールズ・エンゲルハード氏はレーシングマネージャーのデヴィッド・マッコール氏を通じて、オブライエン調教師に依頼を送ってきた。

 マッコール氏は意を決してこう述べた。「もしニジンスキーが三冠を達成できるなら、チャーリーは最高に喜ぶでしょう。ヴィンセント、セントレジャーに間に合うようにニジンスキーを仕上げられると思いますか?」。それは依頼というよりもむしろ命令だった。

 オブライエン調教師はそのメッセージを心に留めていた。エンゲルハード氏はこの上なく裕福な馬主で、バリードイル(クールモアの調教拠点)への支援を始めたばかりだった。1968年にオブライエン調教師はエンゲルハード氏の「ある1歳馬の評価をしてほしい」という呼び出しに応じてカナダに赴いた。彼はその1歳馬に魅力を感じなかったが、同じ牧場にいた他の1頭に惚れ込んだ。

 それこそがニジンスキーとなる馬だった。オブライエン調教師の勧めで、エンゲルハード氏はその馬をカナダの1歳馬の最高価格8万4,000カナダドルで購買した。オブライエン調教師が自身の厩舎を新たな高みに押し上げるうえで、エンゲルハード氏は必要な馬主だった。彼はセントレジャーに向けてニジンスキーを仕上げることに同意し、その決心からこの馬の転落の種はまかれた。

 セントレジャー当日にそんな兆候はまったく見られなかった。ピゴットはニジンスキーを落ち着かせて発走させ、勢いよく走らせ、順調に進んでゴールまで残り2ハロンの地点で先頭に立った。それからメドウビルを1馬身差で下して優勝するのに、四苦八苦しているように見えなかったが、ピゴットは別の考え方をしていた。

 ピゴットはパドックで、ニジンスキーの目から輝きが消えていることに気づいていた。「思い返すと、白癬を患っていたことがニジンスキーの精神に影響を及ぼしていたのは明らかで、競走能力を低下させていました」と、ピゴットは後に自伝で述べている。

 ピゴットは、ニジンスキーは最終的に全力を出し切ったとも言っている。ニジンスキーが彼のスタミナを消耗させてしまう距離で、これ以上差をつけて勝てるはずはなかった。しかし、わずか3週間後のパリでの過酷なレースに出走することになっている馬に、より掘り下げた質問が投げかけられるだけだった。

 競馬界がニジンスキーの三冠達成を祝った一方で、関係者たちはやきもきしていた。ニジンスキーはセントレジャーから29ポンド(約13 kg)も体重を落としていたのだ。その後早くに回復したように見えていたが、凱旋門賞が始まる前にもう本来の彼ではなくなっていたことが分かった。

 ロンシャン競馬場の鈴なりのパドック、そしてそこで1人のカメラマンがニジンスキーの鼻の真下にマイクに近づけたことが、彼の神経に触った。彼が汗をかくことはよくあったが、そのときは汗だくになっていた。ピゴットは、セントレジャー当日にどんよりしていたニジンスキーの目に今度は動揺の影があるのに気がついた。またパドックでは手に負えないほど気難しかった。

 レース中、ニジンスキーはピゴットが意図していたよりも後方の位置にいた。大外の15番ゲートからの発走で最終コーナーを回ったときに彼の後方には3頭しかおらず、最終的に優勝するササフラは先行していた。

 最後の直線に差し掛かったとき、ピゴットはまず内埒沿いを走らせようと探っていたが、その進路は塞がれてしまった。外に持ち出している間に少し形勢が不利になったが、残り1ハロンの標識で目と目が合ったササフラに狙いを定めた。

 ニジンスキーは大きく差を縮め、勝利に向かって疾走するかのように見えた。だが、そのとき彼はつまずいた。彼はササフラをとらえることができず、必死に追うピゴットを背に左に逸れ、イヴ・サンマルタンがササフラにひと伸びさせる隙を与えた。

 ピゴットの身振りは彼が死に物狂いになっている状況を伝えるものだった。彼は鞍の後方に右手で2度強く鞭を入れた。ニジンスキーは鞭をよけるように1完歩よろめいた。その必死の数ミリ秒により、無敗のキャリアは打ち砕かれ、ニジンスキーの夢はパリの埃の中に消えた。

 反響は凄まじかった。オブライエン調教師は後に、「ピゴットには長年騎乗してもらったが、3回だけその騎乗にケチをつけた」と告白している。凱旋門賞はその1つだった。彼はピゴットが仕掛けるのが遅すぎたと感じたが、それでもニジンスキーがベストの状態でなかったことは認めていた。

 それは、オブライエン調教師がニジンスキーを最後の一戦となる英チャンピオンSに送り出したときにはっきりした。彼は偉大なこの馬が最後のレースを勝利で飾ることを切望していたが、ニジンスキーはスタート地点に着く前に堪忍袋の緒を切らしており、ゴールではすっかり疲れ切っていた。彼は、全盛期を過ぎていたロレンザッチョに¾馬身差をつけられ敗れた。

 ニジンスキーの競走馬としてのキャリアは失意とともに幕を閉じたが、大局的に見ればあまり大したことではなかった。ニジンスキーの偉業は、『ニジンスキーという馬(A Horse Called Nijinsky)』という映画を生み出した。また、永久に思い出されるようにバリードイルの正門を入ったところに素晴らしいブロンズ像が立っている。彼の名前は永久に競馬の歴史のページから呼び起されるだろう。

 それというのも彼が三冠を達成したからだ。

「私たち人間が彼をしくじらせました」

 ニジンスキーは、ロシアの誉れ高いバレーダンサーで、いつか馬に生まれ変わりたいと話していたヴァーツラフ・ニジンスキーにちなんで名づけられた。ニジンスキーの馬主は貴金属業界の大物であるチャールズ・エンゲルハード氏である。エンゲルハード氏は、作家のイアン・フレミングと親交があり、007シリーズに登場するゴールドフィンガーのモデルとなった。

 オックスフォード大学クライストチャーチカレッジを卒業したエンゲルハード氏は、第二次世界大戦では爆撃機のパイロットとして従軍し、戦後は9軒の家を8ヵ国に所有する豊かな生活を送った。ペットとしてライオンを所有し、そのライオンを連れてレトリバーの群れとともに釣り旅行に出掛けた。

 ニジンスキーはある意味、エンゲルハード氏が多く所有した中で最高の馬だった。彼は1970年に当時最高額の544万ドルのシンジケートで種牡馬入りした後も大きな成功を収めた。

 1986年にシャーラスタニが英ダービー、ファーディナンドがケンタッキーダービーを制したことで、ニジンスキーは同じ年にこの2レースの勝馬を送り出した唯一の種牡馬となっている。また、もう1頭の優秀な産駒カーリアンは、1988年に英国で、1991年にアイルランドでリーディングサイアーとなっている。

 ニジンスキーは米国三冠馬セクレタリトが生まれた年に英国三冠を達成した。そして、セクレタリアトの関係者がその馬に犯したミスを後に認めることになったように、エンゲルハード氏も1970年のニジンスキーの現役引退の直後にワシントンポスト紙のインタビューで同様の告白をした。

 「この馬が勝つように求められたレースの数と種類は、おそらく1頭の馬が成し遂げられるものではありません。私の考えでは、それこそが私たち人間が彼をしくじらせてしまった理由の1つです」。


By Julian Muscat

[Racing Post 2020年9月7 日「Nijinsky: how the Triple Crown made him a legend - but also caused his downfall」]