1971年、サッカーくじ業界の富豪の息子はヴァーノンズ・スプリントカップの24時間前に、ヘイドック競馬場のバーで若いアイルランド人生産者と出会った。この偶然の出会いは2人にとって運命的なものとなり、その協力関係は競馬界の既成概念を塗り替えることになる。
当時35歳だったロバート・サングスターにとって、それは競馬を新聞のスポーツ面からビジネス欄へと移すことになる冒険物語の始まりだった。サングスターはヴァーノンズ・サッカープールズの財産の後継者であり、あの日の午後にジョン・マグニアが説明したビジョンを支援するだけの資金があった。
23歳のマグニアはアイルランドの生産者グループの支援を受けて、スプリントカップを制する見込みが大いにあるグリーンゴッドを16万ポンドで購買したばかりだった。翌日、グリーンゴッドがそのG1競走を制して、彼はその購買馬で十分な賞金を得ることになる。
サングスターは純粋にスポーツ好きということから、それまでに数頭の競走馬を所有していた。またチェシャーにある200エーカー(約81ha)の家族の土地にスウェッテナムスタッドを設立していた。しかしすっかり競馬の虜になったのはそのときだった。彼はマグニアから、グリーンゴッドは種牡馬入りして最悪の場合でも3年後には投資額を回収するだろうという説明を聞いた。グリーンゴッドが種牡馬として成功するという最高のシナリオが実現すれば、マグニアはかなりの儲けを出すことができるのだ。
生来リスクを恐れないサングスターはこのコンセプトに魅力を感じた。彼はそれから4年間マグニアの壮大な構想を検討し、そろそろ重い腰を上げて取り掛かろうと考えた。
父の了承を得たサングスターはサラブレッドに多額の投資を行うことを決定した。当時調教師として絶頂期にあったヴィンセント・オブライエンは、この新しい冒険的事業に献身的に取り組んだ。彼のバリードイルの厩舎は卓越した調教拠点だったが、このときエージェント(馬売買仲介者)のキャプテン・ティム・ヴィガーズから段階的に購入してクールモアスタッドの株を手に入れることになったのだ。1975年、マグニアは自身が所有していたグランジスタッドとキャッスルハイドスタッドをクールモアの傘下に入れ、競馬界を根底から揺るがすことになるパートナーシップの原型が生まれた。
彼らが残したレガシーは、今日でもはっきり目に見える。英国のリーディングオーナーに5回輝くことになるサングスターは、サドラーズウェルズを生産し出走させた。この馬は欧州の血統を塗り替え、マグニアが完全に所有するようになったクールモアを世界的に最も優勢な生産事業体へと押し上げた。過去31年間、英国とアイルランドのリーディングサイアーをすべて供用してきたことが、クールモアの強大な勢力を物語っている。そのうち26タイトルは、サドラーズウェルズとその息子で多くの産駒を出してきたガリレオが獲得したものだ。
収穫する代わりに種トウモロコシを調達
サングスターがサラブレッドを金融商品として扱っていたことに加え、その派手な私生活が大きな話題となったことで、このパートナーシップの奇妙な行動は世間の注目を集めた。サングスターは、公の場で度肝を抜くような金額の話をするのを常に好んでいた。最初の結婚相手クリスティーン・ストリートとのあいだに生まれたサングスターの3人の息子たちにとって、スポットライトは過酷なものだった。
アダム・サングスターは笑いながらこう語る。「母は寄宿学校(ルドグローブ校)の校長に対して、私たちがからかわれないようにするために、新聞に載っている父が何をしていたかという情報をすべて切り抜くように言っていました。そこにあったのは父にまつわる煌びやかで妖しい魅力とでも言ったような話なのですが、母の方はというと、いつもそんな風にチャーミングなところがありました。
サングスターの3人息子の成長期に、このパートナーシップの活動は最高潮に達していた。ベン・サングスターはこう述べる。「私たちは若すぎて何が起きているのかよくわかりませんでした。エルグランセニョールとサドラーズウェルズという、驚くべき名馬が活躍した年(1984年)、私は19歳でした」。
「父は馬が国際取引通貨になるように、ゲームを変えてしまいました。父は自分がゲームをがらりと変えたことに気づいていたのでしょうか?分からないですね。3つの大陸でゲームをやっていたら、それがたちまち国際的なビジネスになってしまったのです」。
クールモアのパートナーたちはサラブレッド産業を商品市場として扱った最初の人々である。競馬場を利用して自分たちの馬の潜在的な種牡馬としての価値を高め、自分たちが活気づけて膨らんだサラブレッド市場で、それらの馬の価値を順当に上昇させていった。
このゲームプランは、収穫する代わりに種トウモロコシを調達することを中心に展開した。グリーンゴッドのような馬を購買する場合には、実績馬に大金を支払うことになる。しかしサングスターのパートナーたちは、今度はエージェントのトム・クーパーとパット・ホーガンからアドバイスを受けながら、自分たちで馬を"創る"専門知識をつけていった。彼らは種トウモロコシを調達するために、ケンタッキー州のキーンランド7月セレクト1歳セールに出かけた。そのセリでは、欧州で咲き乱れる欧州・北米の血統がブレンドされた馬が上場されていた。
彼らは最初の購買旅行で大当たりを出した。1975年に12頭の1歳馬に約200万ドルを投じ、その中に20万ドルの値札で購買した栗毛のノーザンダンサー産駒がいた。ザミンストレルと名付けられたこの馬は、英ダービー・愛ダービー・キングジョージ6世&クイーンエリザベスSを制した後、1977年末に一流種牡馬候補としてケンタッキー州に900万ドルで買い戻されたのである。
翌年、サングスターとそのパートナーたちはアレッジドを換金した。ブリーズアップセールにおいて17万5,000ドルで購買したこの馬は、凱旋門賞を2勝したことで、ケンタッキー州の関係者により1,600万ドルで購買されたのだ。このような評価は欧州ではまさに空想のようなものだったが、サングスターとその仲間たちは効果的に、大西洋に双方向の橋を架けた。
マグニアの最終的な野望は、クールモアでこのような馬を供用することだった。アレッジドとザミンストレルの売却により銀行口座にかなりの利益がもたらされた。その頃には、パートナーたちは種牡馬とするために最高の馬を手元に置き続ける余裕があった。マグニアは、サラブレッドの価値が高騰しているケンタッキー州で展開されているのと同じような金融方程式を、欧州で実現できると強く確信していた。
競走馬を種牡馬候補として売却して大儲けできても、それはリーディングサイアーが生み出す年間収入とは比べものにならない。これがパートナーたちの冒険の次のステージであり、クールモアで有り余るほどのトップクラスの競走馬が供用されることになった。
1981年からの5年間で、キングズレイク、ゴールデンフリース、カーリアン、ロモンド、ローソサエティ、ウッドマンがクールモアの種牡馬群に加わった。またストームバードやエルグランセニョールは、クールモアの米国の拠点であるアシュフォードスタッド(ケンタッキー州)で芽吹いていた勢力を象徴する存在となった。これら8頭の種牡馬はすべて、1歳時に米国で購買された。そのうち6頭はノーザンダンサーもしくはその伝説となった息子ニジンスキーを父とした。
マクトゥーム兄弟の出現により迫られた方向転換、そしてもうひとつの先駆的手法
ノーザンダンサーの1歳の産駒はサングスターとそのパートナーたちによってきわめて珍重されたが、1980年代に入るとそれらの馬を欲しがるのは彼らだけではなくなっていた。彼らの成功に触発されて、他の人々も大きな利益を生むサラブレッドを求めるレースに参加するようになった。キーンランドの購買者としての彼らの覇権は、ドバイのマクトゥーム兄弟の登場によって最初は脅かされ、その後は圧倒されることになる。
マクトゥーム兄弟はその威力を誇示した。この兄弟は1981年にサングスターに競り勝ってノーザンダンサー産駒を330万ドルで手に入れた。また、その2年後にはその1人であるモハメド殿下がサングスターが全力で手に入れようとしていたノーザンダンサー産駒を1,020万ドルで競り落とした。
「少なくとも、我々に度胸があることを示しました」とサングスターは言った。だが、モハメド殿下は別の見解を示した。もう1人の資産家との競り合いはどういう感じだったかと聞かれ、「サングスター氏が資産家として見られていることに驚きました」と答えたのだ。
当然のことながら、この熱狂的な競り合いでキーンランドの購買価格は急騰した。サングスターが初めて1歳馬を購買した1975年の平均価格は5万3,000ドルだった。1984年には60万ドルを超え、これはもう不吉な兆候だった。1986年、マクトゥーム兄弟はキーンランドで1歳馬57頭を購買するために4,000万ドルを投じたが、その大半はノーザンダンサーとその息子が送り出した産駒だった。これに対してサングスターとそのパートナーたちは、わずか3頭の1歳馬を購買するために300万ドル強を費やすにとどまった。
種トウモロコシが枯渇し、パートナーたちがキーンランドで希望する1歳馬を手に入れ戻ってくることが前提のサングスターのゲームプランに、壊滅的な打撃が与えられる可能性があった。
彼らは1978年、スタブロス・ニアルコスにもう1頭のノーザンダンサー産駒を140万ドルで競り落とされてしまったことで、高い授業料を払った。ヌレイエフと名付けられたその牡駒は、1980年英2000ギニーで1位入線した。彼が走行妨害により失格となったのは机上の話にすぎず、その後すぐに4,000万ドルのシンジケートが組まれた。パートナーたちは二度とそのようなことを生じさせないと誓ったが、彼らの資金は平たく言えば、マクトゥーム兄弟の勢力には及ばなかった。
サングスターのレースでの運にも影響が及ぼされた。彼は1977年~1984年の8年間に英国のリーディングオーナーに5回輝いたが、以後そのタイトルをふたたび獲得することはなかった。
しかし幸運なことに、クールモアには垂涎の的の種牡馬候補がたくさんいた。そのうちの1頭、サドラーズウェルズはキーンランドの1歳セールで購買されたのではなくサングスターのスウェッテナムスタッドで生産されたが、大当たりだった。
所有していたクールモアの種牡馬の株と、長年をかけて築きあげた良血の繁殖牝馬群が、サングスターに1980年代の終わりに向けて方針を変えるように促した。彼は1歳馬の買い手から売り手へと変わることになる。
アダム・サングスターは「中東の人々の出現により、父のビジネスモデルが成り立たなくなったのです。方向転換しなければなりませんでした」と振り返る。
サングスターは2,000エーカー(約809ha)のマントンエステート(ウィルトシャー)を購入した。完全に自分の思うままに馬を走らせたいという意思の現われだった。そして1992年に日本に610万ドルで売却したG1馬ロドリゴデトリアーノのような馬で、折に触れ注目される成功を収め続けた。また、この年のダービー馬ドクターデヴィアスを生産したが、彼の新しいビジネスのやり方に沿ってこの牡駒は2歳シーズンの途中で売却された。ほかにもクラシックを制すことになるバランシーンやケープヴェルディなど、トップクラスの馬を売却している。
サングスターは豪州競馬に心酔し、1990年代初頭から豪州のサラブレッド事業にいっそう関わるようになったが、それと同時にクールモアスタッドの株を手放した。1980年代後半の最盛期には豪州で130頭の繁殖牝馬を所有していた。
サングスターの2番目の妻スーザンは豪州人だった。彼はベルデイルボールで1980年のメルボルンカップを勝ったことに夢中になっていた。同馬を手掛けたコリン・ヘイズはサングスターの生産ビジネスのパートナーとなった。ヘイズはサングスターやマグニアと協力して、北半球と南半球のあいだで種牡馬をシャトル輸送するという先駆的なコンセプトに関わった。
1991年に父の資産を管理するために豪州に移住したアダム・サングスターは、「豪州の大都市にある競馬場はとても狭いため、多くの調教師は馬がコーナーを回りやすくするためにせん馬にするなんて話もあります。父は豪州で魅力的な種牡馬が不足していることがわかったので、クールモアとのつながりもあり、南半球と北半球のあいだで種牡馬のシャトル輸送を始めたのです」。
このコンセプトにより種牡馬は1年に2倍の活躍をするようになり、その価値は大きく変わった。また豪州の繁殖牝馬と欧州・米国から来た種牡馬との交配が幅広く行われるようになり、サングスターが一部所有していたデインヒルはそれを実践する代表的な種牡馬となった。
豪州人がサングスターを善良な1歳馬販売者と認めるまでには時間がかかった。
アダム・サングスターはこう語っている。「彼らは父が最高の1歳馬を手元において、残りを販売していると思っていました。そこで1989年に、1歳馬2頭を1つのロットにまとめ、40ロットを販売するプライベートのセリを開催しました。落札者は欲しい方の馬を選び、父はもう1頭を自らレースに出走させるというものでした」。
サングスターは、最後まで競馬の虜でありつづけた。2002年には死の18ヵ月前に、売却の決定を覆し、豪州の自家生産馬をすべて調教に回すことにしたと語っていた。
サングスターはメルボルンの地元紙エイジにこう述べていた。「我々の方針は売却することでしたが、私はもう若返ることはありません。銀行預金残高を黒字にするのは結構なことですが、残高を見るのはあまり面白くないです。それよりもちょっとした楽しみがほしいんです」。
しかし、そうはいかなかった。サングスターは膵臓がんに侵され2004年に他界した。彼は欧州でG1馬100頭以上を走らせ、そのうち27頭がクラシック優勝馬だった。豪州ではG1馬37頭を走らせた。凱旋門賞を3勝、英ダービーを2勝した。
先見者マグニアは今でもその役割を続行
サングスターが亡くなる頃には、マグニアは独自に成功していた。1993年、サングスターの最後の巨額取引となるデインヒルの完全購買に資金を提供した。それまでデインヒルは、クールモアと豪州のジョン・メッサーラのアローフィールドスタッドにより折半で所有されていた。クールモアのシンジケートは、封入入札でアローフィールドが持つデインヒルの半分の株を買い取り、デインヒルの価格は1,800万ドルとなった。
その後の出来事はデインヒルの価格が安かったことを証明することになる。デインヒルは北半球と南半球の両方でリーディングタイトルを獲得したクールモアの唯一の種牡馬となった。豪州で9回、英国とアイルランドで3回リーディングサイアーに輝いたのだ。デインヒルは、大陸の境界を取り払い、自ら舵を取る真のグローバルビジネスを創造するという、マグニアのビジョンを体現していた。
また、マグニアは欧州で多数の繁殖牝馬に種付けさせるというコンセプトを推し進め、年間の種付頭数が200頭を超えることもあった。このプロセスは莫大な収入を生み出したが、アイルランドではそのすべてが非課税だった。クールモアはその頃、種トウモロコシだけでなく収穫も手に入れたのである。
卓越した種牡馬を発掘するにはある程度の幸運が必要である。しかしマグニアとクールモアの幹部たちがビジネスに精通していることを示したのは、その利益の使い道だった。サドラーズウェルズが名声を確立した1990年代初めから、クールモアはその種牡馬との交配によって年々強化される繁殖牝馬群の編成を始めた。
その繁殖牝馬群は、今ではジャドモントの繁殖牝馬群とまったく同様におそろしく優れている。優秀な競走馬の量産装置となった今日のクールモアは、無限に継続しうる。かつてヴィンセント・オブライエンが支配していたバリードイルにあるエイダン・オブライエンのアカデミーを通じて、クールモアは毎年独自の種牡馬候補を創り出している。
マグニアはまた、最初はマイケル・テイバー、その後はデリック・スミスといったさらに裕福なパートナーたちを迎え入れ、クールモアの世界的に最も力感あふれるプレーヤーとしての地位を強化した。ウートンバセットのように、彼らの組織以外の種牡馬がその真価を示す場合には、そのような種牡馬を組織に迎え入れるためのリソースが豊富にある。
"永遠に続くものなどない"とは言うが、クールモアと競合する種馬場にそのことを言ってみてほしい。サドラーズウェルズの息子、ガリレオが今年の終わりに13回目のリーディングサイアーの座につかないとすれば、びっくり仰天だろう。順当にその座につけば、サドラーズウェルズがもつ史上最多の14回のタイトル記録にはあと1つに迫ることになる。また、クールモアは32年連続でリーディングサイアーを擁することになる。
大富豪に夢を売った若き先見者にしては悪くないし、まさに使命を果たしたと言えるだろう。
やはり運命が大きな影響をもたらしている
サドラーズウェルズの物語は、サラブレッドビジネスにおいて、どれだけの直感や戦略的思考も運命のうなずきほどの価値はないことを明示する。
サドラーズウェルズの母フェアリーブリッジは1976年、1歳のときにサングスターとそのパートナーたちによりキーンランドで比較的手ごろな4万ドルで購買された。
サングスターの一行はこの年、セリの数日前にクレイボーン牧場を訪れ、この名門牧場の選り抜きの1歳馬を視察した。一行の中には、派手で伝説的な人物であるエージェント(馬売買仲介者)のビリー・マクドナルドがいた。彼はクレイボーンの1歳馬管理者に、選り抜きの中でもどの馬が一番かを教えてもらうのと引き換えに、50ドル札を渡した。1歳馬管理者は、臨時で供用されていた種牡馬ボールドリーズンの小柄で冴えない牝馬フェアリーブリッジを提案したが、誰もこの牝馬に目を留めていなかった。
しかしフェアリーブリッジはマクドナルドの手をすり抜けてしまうところだった。マクドナルドはセリ名簿の彼女のページの角を折っていたが、ホテルのバーに行き、そこで夜を明かしてしまった。セリ名簿はどういうわけかゴミ箱に捨てられていたが、翌朝、ホテルのスタッフが偶然にもそれを回収してマクドナルドに返してくれた。
それがなければ、マクドナルドはその1歳馬の正体を思い出せなかっただろう。フェアリーブリッジは別の人の手に渡り、サドラーズウェルズが誕生することはなかっただろう。
By Julian Muscat
[Racing Post 2021年6月21日「'Dad changed the game in that horses became an international trading currency'」]