ヨハネスブルグの市街地の喧騒から離れたところにあるアパルトヘイト博物館は、現代史の汚点となる一章を詳細に記録するだけではなく、現在も南アフリカを悩ませている多くの問題について見識を与えてくれる。
白人用と非白人用がはっきりと区別された回転ドアがあるが、来館者たちはどちらも自由に利用できる。また、1976年のソウェト蜂起の暴動の写真が展示してある。小心者は観賞するに堪えないものがあるだろう。学生たちが中心となった抗議行動は警察による行き過ぎた残虐行為を招き、数百人もの若者が犠牲となった。
1950年代に6万人がソウェトに強制移住させられ、アパルトヘイト政策により人口密集地区が街のはずれに形成された。その後、新しい統一国家のビジョンがそこで育まれることになった。それを指揮した中心人物であるネルソン・マンデラ氏の赤レンガの小さな家は、ヴィラカジ通りの人気ある観光スポットとなっている。
ジョーバーグとも呼ばれるヨハネスブルグは黒人の抵抗運動の先駆けとしてよく知られているが、富と極貧の著しいコントラストを今なお見せている。国内で最も貧しい市街地の1つであるアレクサンドラ地区は金融街サントンのきらきら光る高層ビル群からM1高速道路を隔てて1kmも離れていない。人々が往来を物乞いしながら歩くのも見受けられる。
アパルトヘイトが終焉を迎え、1994年に初めての多民族の選挙が行われた。ネルソン・マンデラ氏の"虹の国"は、どのようにして公平な社会を一から作るかを見せるはずだったが、与党アフリカ民族会議のもとで不平等は残り続け、高い失業率・国の借金・公共サービスの財源の不足が問題となっている。
ヨハネスブルグでは定期的に停電があり、今年は水不足にも悩まされた。多くの世帯が高いコンクリートの塀に囲まれており、民間警備会社によって守られている。街には観光客にとって危険だと考えられている地区もある。富裕層は工業地区から離れた北部に集中している。
しかし、ヨハネスブルグはケープタウンほど人気がないものの、見えない部分をよく調べてみれば多くの魅力を発見できるだろう。そこには盛んなアートシーンや豊かなスポーツの歴史がある。2010年のワールドカップ決勝戦はサッカーシティで行われた。南アフリカの最も多くの栄誉を受けたミッドフィルダー、シフィウェ・チャバララについて語れば、温かく受け入れられるだろう。
スポーツと政治は昔から密接な関係にあり、南アフリカ競馬界も例外ではない。2019年には、ハウテン州政府はかつてヨハネスブルグ地区で競馬を運営していたフメレラ社に的中馬券への税金の3%を得る資格はないと判断し、それは同社が2020年に事業救済を申請する要因となった。
その1年前、競馬産業は前回の総選挙の混乱に巻き込まれていた。各政党が選挙運動を展開する中、大半が黒人である厩務員たちは左翼の"経済的解放の闘士(EFF)"に引きつけられた。EFFは厩務員たちにストライキを起こすように呼びかけていた。
その後3日間続いたストライキでは、武器を振り回す300人の厩務員たちがランキースフォンテンのトレーニングセンターを行進し、新賃金協定が結ばれるにいたったと伝えられている。しかし厩務員たちの脅しと言いがかりにより、マイク・デコック調教師は自らの将来に疑問を持つようになった。それでも今もこの施設に残り、125頭を管理している。
ランキースフォンテンはヨハネスブルグの北に広がる田園地帯の格好の場所に位置にしている。地元の作家が言うところの"大陸で最も交通量の多い高速道路"を走って行けば到達できる。トレーニングセンター入口には警備員ブースがあり、そのあとに続く長くてまっすぐな道の両側に同一の厩舎棟が並んでいる。F1のピットレーンに似ていないこともない。
このランキースフォンテンの施設と、ターフフォンテン競馬場にあるもう1つのトレーニングセンターで、所属する調教師の人数は均等に分けられている。デコック調教師は2つの厩舎棟を持ち、それらは芝およびオールウェザーの共有調教走路に面している。英国の平地の一流厩舎のように設備は近代的ではなく事務所は広くないが、必要なものはすべて敷地内にそろっている。
デコック調教師は「なぜここで調教を続けるのですか?」と尋ねられ、「老いたる犬に新しい芸を教えることはできないということですよ」と答えた。そして、「やめることはいつでもできたのです。香港で良いオファーがあったのですが、この国に情熱を持っているものですから、最後まで我慢せねばならないと思いました。それに変化を見届けたいのです」 と続けた。
長期にわたって成長し世界に存在感を示したあと、南アフリカの競馬産業はほとんど消滅してしまった。発売金と賞金の激減、ヨハネスブルグのゴスフォースパークやニューマーケットなどの競馬場の閉場により、厩務員たちとほぼ白人のみの調教師陣のあいだの緊張はさらに高まったのだ。
ゴールドサークル、ケープレーシングとならぶ三大競馬運営業者の1つであるフメレラ社の最終的な消滅は競馬産業の衰退を象徴するものだった。とどめを刺したのはコロナ禍だったが、調教師たちのあいだではすでに嫌な予感があった。長年にわたり、誤った経営と、理事だったマーカス・ジュースト氏との有害な関係が続いていたのだ。
ジュースト氏は馬主として競馬に膨大な投資をしていたが、国際的な投資詐欺事件であるシュタインホフ株上場スキャンダルの渦中にあり、来年にはドイツにおいて粉飾決算の容疑で裁判にかけられる予定である。
フメレラ・ゲーミング社は、鉱山王ハリー・オッペンハイマー氏の娘であるメアリー・スラック氏が支援する新企業、フォーレーシング社(4Racing)に取って代わられた。フォーレーシング社はハイベルト地域(ターフフォンテン競馬場、ヴァール競馬場)と東ケープ州(フェアビュー競馬場)の競馬を運営する。また、ケープタウンとダーバンの競馬も同様にハリウッドベッツ社(Hollywoodbets)と実業家のグレッグ・ボルツ氏により支援されている。
デコック調教師は「航路は正された」と言い、現在事務所で出馬投票に目を通している最中だ。そして、「岩場から離れて外洋に出られることを望んでいます。これ以上悪くなることはないでしょう。幸いにも、数人の情熱的な支援者が競馬を生き残らせるために介入してくれたのです」と続けた。
南アフリカではかつていくつかのレーシングクラブによって競馬が運営されていたが、1990年代にそれらが統合され有限会社(limited companies)になった。そのため株主が急に増え、"競馬産業にいったいどれだけ還元されるのか?"についてよくある不安が生まれた。
デコック調教師はこう語った。「最初は良い動きだったのですが、失敗するようにできていたのです。配当金を支払うようになった途端、企業の欲と絡むようになってしまいました。資金は逆方向に流すのではなく、競馬界に還元する必要があったのです」。
デコック調教師は長年にわたり海外における南アフリカ競馬界の顔として活躍してきた。G1・130勝以上を挙げ、2000年代にはドバイで数々の画期的な勝利を収めてゴドルフィンに対抗した。昨年は息子マシュー氏に調教活動を引き継ぐことを希望していたが、マシュー氏は現在豪州において共同で調教活動を行っており、56歳のデコック調教師は相変わらず多忙である。
彼は「年だからそんなに一生懸命働けない」と冗談を言いながらも情熱をもちつづけている。たとえ地元マスコミにずけずけと物を言っていたとしても、厩舎のスター馬を披露するときにその情熱がはっきりと表れる。それらのスター馬の中には今回のインタビューの数日後にサマーカップ(G1)で2着となったセーフパッセージがいる。
リーディングタイトルを何度も獲得しているデコック調教師は国内で好調を維持しているが、国際的な活動はやむなく停止している。以前はドバイでサテライト厩舎を運営していた。2013年以降、南アフリカから欧州へ馬を直接輸出することは禁止された。南アフリカはアフリカ馬疫が発生しないことを保証できないと欧州連合(EU)は判断し、ほかの国も追随したのだ。この疾病は馬・ロバ・ラバに感染する。
馬を輸出するには長い検疫期間の対象となり、モーリシャスでの検疫は3ヵ月にも及ぶ。その結果、南アフリカ競馬は片手を縛られた状態で運営されている。海外遠征が阻まれているだけでなく、シャドウェルのような著名な購買者を引きつけていた生産界も息の根をとめられているのだ。
デコック調教師はこう語った。「あっという間のことでした。大物馬主は興味を失ってしまいました。以前は豪州から馬を連れてきて、安いコストで仕上げて、手頃な価格でドバイに連れて行ったものですが、すべて変わってしまったのです。生産界に打撃が与えられ、その結果、馬主が激減してしまったのです」。
「以前はドバイで20頭~30頭を管理していましたが、プロトコルの変更でそれができなくなってしまいました。かつてはゴドルフィンと対抗し、人々はそのライバル関係を楽しんでいたものです。南アフリカを世界に知らしめるのにも一役買いました。まだドバイに機材などを置いているので、できることなら明日にでもサテライト厩舎を再開したいぐらいです」。
「世界クラスのレースにふたたび参戦できるようにする必要があります。南アフリカの馬を海外のレースに出走させることで、競馬産業にいっそう注目を集めることができます。そのようなことは常に、ほかの競馬開催国が南アフリカの競馬を賭事商品として見る正当性を与え、セリに投入される外国資本を増やすことにつながっていたのです」。
通りの向こう側にはショーン・タリー厩舎がある。途中、携帯で音楽をガンガン聞く厩務員のグループとすれ違った。デコック調教師と同様に、タリー調教師も一流の部類に入り、管理馬を海外遠征させてきた。2008年ナンソープS(G1)ではナショナルカラーが2着に入っている。
タリー調教師はこう語った。「この国には良いモデルがあったのです。しかし無駄を削ることに十分な非情さがあったかどうかという疑問が残ります。それでひっくり返った可能性もあります。コロナ禍が大きな転機となりました」。
「今は精力的な新しい競馬運営業者を迎えて財政的な決着を図ろうとしています。しかし、もっと積極的に行動しなければなりません。馬の輸出規制は大問題です。科学的見地からすれば、現代では少しばかりおかしな話ですね。世界がコロナ禍で学んだことを考えれば、なぜ海外遠征できないのか理解しがたいです」。
「本当に撃沈させられています。このようなハンデを背負わされたことにイライラしています。長期にわたって検疫の問題があり、ほとんど活動を再開していないのが現状です。開放することによって競馬産業を牽引できるのです。国際的な競馬の舞台は潜在的な投資家に向けてのショーウィンドウであり、私たちの馬は魅力的と見られるのに必要なものを備えていると信じています」。
英国競馬界は直面する課題があるにもかかわらず、若い調教師の波が英国に押し寄せている。言うまでもなく、近年の南アフリカ競馬界の状況は必ずしも楽観視できるものではないが、ジェームズ・クローフォード氏(23歳)は、ケープタウンとダーバンの大物の一人である父ブレット氏のためにサテライト厩舎を運営した後、そこを恒久的な調教拠点とする予定だという。
クローフォード氏はこう語った。「状況が変化するのに時間がかかりました。そして残念なことに、不適切な人々がこの産業を運営してきたのです。ハリウッドベッツ社やフォーレーシング社のような企業が参入することで、大きな前進があるかもしれません。しかし、一日にして成らずです。10年待たないといけないかもしれません。それでも競馬の利益が最優先されるかぎり、かなり楽観的に考えています」。
「コロナ禍であっても、つねに馬のために使うお金はあります。競馬産業を支援したいと思っている人はいつでもいるのです。だから期待できます。海外に行って馬を出走させられるとなると、さらに期待は高まりますね」。
「ニューマーケットに馬を連れて行きたいと思っていますし、大舞台で競わせることができると考えています。南アフリカの競馬と生産をほかの国と比較してみるのは素晴らしいことです。それに新たな投資がもたらされるかもしれません」。
By Jonathan Harding
[Racing Post 2022年11月27日「How racing was nearly lost in a country still grappling with its grim past」]