海外競馬情報 2022年06月20日 - No.6 - 1
レスター・ピゴット、若き天才からレジェンドにいたる軌跡(イギリス)【その他】

 1935年11月5日、レスター・キース・ピゴットはバークシャー州ワンテージの病院で生まれた。18世紀にまでさかのぼる競馬一家の血統に属していた。

 父キース・ピゴットは1939年にアフリカンシスターに騎乗してチャンピオンハードルを制した。また1962-63年障害競走シーズンには、レスターが馴致したアヤラでグランドナショナルを制してリーディングトレーナーに輝いた。

 キースの父アーニー・ピゴットは障害競走のリーディングジョッキーに3度輝き、グランドナショナルも3勝した。アーニーの妻マーガレットはヴィクトリア朝の名騎手トム・キャノンと妻ケイトの娘であり、ケイトはデインベリーの名高いデイ一族の出身だった。

 レスターの母はアイリス・リカビーであり、彼女の父フレッド・リカビー・シニアは騎手としてクラシック3勝を果たした。

 ピゴットは一人っ子であり、難聴だったこともあり孤独な性格だった。読唇術を学び、一対一の会話に不自由はないが、話し方はいつも不明瞭で、特に鼻にかかったイントネーションが特徴的だった。

 人よりも馬とよく打ち解け、歩けるようになるとすぐに馬に乗った。一家はレットクーム・レジスに住んでいたが、1945年にランボーンに移った。

 8歳のときから自宅で競走馬に乗り、そして1948年4月、12歳のときに初めてレースに参戦した。ソールズベリーで行われた見習騎手競走で3歳牝馬ザチェイスに騎乗したのだ。

 そのときこのコンビは着外となったが、8月18日にこの童顔のジョッキーは7回目の騎乗となるウィガンレーンセリングH(ヘイドック)でふたたび彼女とコンビを組み、6ストーン9ポンド(約42.2㎏)の負担重量で先輩ジョッキーたちを打ち破った。このとき2着に入った馬は"やらず"だったことが判明した。

1950年代 若き天才ジョッキーとしての活躍

 ピゴットの父は"勝つことだけが大事だ"という考えを植え付け、ピゴットはキャリアの初めに若者のがむしゃらさゆえに何度か騎乗停止処分を受けた。それでも1950年には、見習騎手リーディングタイトルを初めて手に入れた。ピゴットはこのタイトルを3年連続で獲得することになる。

 翌年、この15歳の若き天才はエクリプスSでフランス調教馬ミステリーに騎乗して初めてのトップレベルの勝利を挙げた。そして第1回キングジョージ6世&クイーンエリザベスS(以下キングジョージ)ではズッケロに騎乗して2着に入った。

 1952年にはダービーとキングジョージでゲイタイムに騎乗して僅差の2着となった。見習騎手を卒業して1年目のシーズンとなった1953年には、ズッケロは型破りだけど素晴らしい走りを見せコロネーションカップで見事に優勝し、ピゴットにとって初の最優秀馬となった。

 体重増加のためにハードル競走でも騎乗するようになり、1954年にはトライアンフハードル(ハーストパーク)をプリンスシャルルマーニュで制覇した。

 その3ヵ月後、まだ18歳だった彼は3番目の候補だったが、ダービーで単勝34倍のネバーセイダイに騎乗することができて、クラシック初勝利を挙げた。ジョー・ローソンが手掛けたこの米国産馬は残り2ハロン(約400m)で先頭に立ち、2馬身差で快勝した。

 キングエドワード7世Sでネバーセイダイは4着に終わったが、ピゴットはその荒い騎乗により騎乗停止処分を受けた。競馬関係者は勝ちたいという意欲ゆえに彼が無謀な騎乗を行いつつあると感じ、鉄槌を下したのである。

 しかし彼の才能は否定できるものではなかった。引退するサー・ゴードン・リチャーズの後任として、1955年にノエル・マーレス厩舎のステーブルジョッキーに任命された。マーレスはニューマーケットのウォレンプレイスを拠点としており、ピゴットの30年にわたるこの調教場との関係はここに始まった。

 彼が主戦を務めた最初の偉大な馬、脚部不安を抱えたクレペロは1957年には2戦しかしなかったが、いずれも勝利で飾った。2000ギニーを制したあと、ダービーでバリモスに1½馬身差をつけて優勝したのだ。

 その2日後、ピゴットは自身にとって一度きりとなるエプソムクラシック(ダービー&オークス)のダブル制覇を達成した。そのとき騎乗したカロッツァはピゴットがエリザベス女王にもたらした唯一のクラシックウィナーとなった。馬主は幸せそうにこの牝馬を誘導した。

 ライトボーイはピゴットが騎乗した中で最強のスプリンターに成長し、この芦毛馬は1958年と1959年に2年連続でコークアンドオレリーS(現プラチナジュビリーS)、ジュライカップ、ナンソープSを制覇した。

 しかし1959年は主にプティトエトワールの年だった。ピゴットはプティトエトワールが1000ギニーを制したときにマーレス厩舎の別の牝馬に騎乗していたが、オークスではその愚を繰り返さず鞍上を務めた。オークスでプティトエトワールは目もくらむばかりのスピードで3馬身差の圧勝を収めた。このアリ・カーン殿下の芦毛馬はその後、サセックスS、ヨークシャーオークス、チャンピオンSを制した。

 ピゴットはハードル競走でもときどき騎乗しつづけていたが、1959年2月に挙げた勝利がハードル競走での通算20勝のうち最後の1勝となった。その頃までには鋼のような自制心により、平地レースで騎乗するために本来の体重を2ストーン(約12.7㎏)も下回る体重を維持することで問題を解決していた。

1960年代 リーディングタイトルを何度も獲得

 1960年2月、ピゴットはサム・アームストロング調教師の娘、スーザンと結婚し、ニューマーケットに居を構えた。スーザン・ピゴットはエージェント(馬売買仲介者)として成功し、2人の子ども、モーリーン(ウィリアム・ハガス調教師の妻)とトレイシー(アイルランドのTVスポーツ司会者)に恵まれた。

 結婚と時を同じくして、1960年にはプティトエトワールとセントパディの活躍により初めてリーディングジョッキーに輝いた。

 プティトエトワールはコロネーションカップを余裕で制したが、単勝1倍台の大本命に推されて臨んだキングジョージではピゴットが多くのチャンスを与えたにもかかわらずアグレッサーをとらえ損ねた。同じ厩舎のセントパディ(クレペロと同じくサー・ヴィクター・サスーンの所有馬)はダービーとセントレジャーSを3馬身差で制した。

 1961年にはプティトエトワールが2度目のコロネーションカップ優勝を達成し、セントパディはエクリプスSで先行逃げ切り勝ちを決めた。ウォレンプレイスのチームはオーレリウスでセントレジャーSも制したが、ピゴットはスコビー・ブリースリーに敗れてリーディングタイトルを獲得できなかった。

 1964年9月、ピゴットはロンシャンで落馬して頭蓋骨に亀裂が入り重度の脳震盪を起こした。この怪我が原因で何年ものあいだひどい頭痛に悩まされることになった。騎乗再開は慎重を期してのものよりもかなり早かったが、そのおかげでリーディングジョッキーに返り咲くことができ、それから8年連続でリーディングタイトルを獲得することになる。

 メドウコート(パディ・プレンダーガスト厩舎)は1965年のダービーで決定的な優勝馬シーバードの2着に入った。その後、愛ダービーとキングジョージを制した。ピゴットにとって初めてのキングジョージ優勝馬である。

 1966年、ピゴットはマーレス厩舎との契約を更新しないことにした。オークスではヴィンセント・オブライエンが手掛けた本命馬ヴァロリスを選んで優勝した。だが、マーレスとの決裂はすぐに修復された。そしてキングジョージではマーレス厩舎の現役最強牝馬アーントエディスとコンビを組んで優勝を果たした。

 ピゴットは国内における自己最多勝を更新し191勝を挙げてふたたびリーディングジョッキーに輝いたが、マーレスは厩舎専属騎手を探していて、オーストラリア人ジョッキー、ジョージ・ムーアと契約した。

 マーレス&ムーアのコンビが1967年の最初の3つのクラシック競走を制したとき、ピゴットのフリー転向は失敗だったように思われた。とりわけダービーでロイヤルパレスがピゴット鞍上のリボッコを2着に下したときに、それは強く感じられた。

 しかしリボッコは愛ダービーとセントレジャーSでマーレス厩舎の馬を2着に破り、ピゴットはリーディングタイトルを防衛した。ピゴットがマーレス厩舎を去ったのは1年早かったのかもしれないが、その決断は長期的には正当なものだった。

 ピゴットは1968年の2000ギニーとダービーでヴィンセント・オブライエンが手掛けたサーアイヴァー(レイモンド・ゲスト氏所有)を決定的な勝利に導いたが、その後この馬は4連敗を喫することになる。

 ピゴット自身、愛ダービーでサーアイヴァーを破っている。アイルランドでオブライエン厩舎の専属騎手だったリアム・ウォードが鞍上を務めていた単勝1.33倍の本命馬サーアイヴァーを、リベロで打ち破り衝撃的な勝利を収めたのである。ふたたびピゴットとコンビを組んだサーアイヴァーはエクリプスSで3着、凱旋門賞ではヴェイグリーノーブルに決定的な差をつけられ2着となったが、チャンピオンSとワシントンDCインターナショナルを制して復活を遂げた。

 リベロは全兄リボッコと同じく気性の荒いリボー産駒で、同じようにクラシック二冠を達成した。セントレジャーSではピゴットが最高の手綱さばきで誘導し、短頭差でゴールを駆け抜け勝利した。

 ワシントンDCインターナショナル優勝馬カラバスと牝馬パークトップは、いずれもバーナード・ヴァン・クツェム調教師が手掛けた1969年のトップクラスの古馬だった。コロネーションカップとキングジョージでピゴットはパークトップに末脚を発揮させて勝利をつかんだが、凱旋門賞では彼女のフライングフィニッシュはレヴモスをとらえることができなかった。

 凱旋門賞の次のレース、ムーランドロンシャン賞でピゴットはハビタットに騎乗して勝利を決めた。この最優秀3歳マイラーはリボッコ、リベロ、そして2歳最強馬リボフィリオと同様に、米国人実業家チャールズ・エンゲルハードのためにフルク・ジョンソン・ホートン調教師が管理した馬だった。もう1頭のエンゲルハードが所有した牡馬、ニジンスキーはヴィンセント・オブライエンに手掛けられ、最優秀2歳馬になった。

1970年代 騎手のリーダー的存在

 1970年の三冠馬ニジンスキーは、ピゴットがそれまでに騎乗した中で最も偉大な馬だった。

 このカナダ産のノーザンダンサー産駒は2000ギニーを楽勝し、ダービーでは堂々とした末脚を見せフランスの一流馬ジルとスティンティノを大敗させた。

 ニジンスキーはアイルランドでの全戦で騎乗したリアム・ウォードを背に愛ダービーを制した(ピゴットはメドウヴィルに騎乗して2着だった)。その後ふたたびピゴットが手綱を取り、キングジョージでわずかにストライドを使っただけで勝つことができた。そしてセントレジャーSを制したことにより、1935年のバフラム以来となる15頭目の三冠馬となり、不滅の名声を手に入れた。

 ニジンスキーが凱旋門賞で敗れて無敗記録がついえたとき、この敗戦での騎乗はピゴットのキャリアにおいて最も物議を醸すものとなった。大本命だったニジンスキーにはたくさんのチャンスがあり、残り1ハロン(約200m)を切ったときササフラをとらえるためにぐんぐん伸びていたが、生まれて初めて強いプレッシャーを受けて左に寄れてしまい、ササフラが頭差で勝利した。

 13日後のチャンピオンSでは、ニジンスキーはロレンザッチョの2着となった。セントレジャーSの前にひどい白癬に罹り、それが完治していなかったのだ。

 ピゴットはこの年、英国の5つのクラシック競走のうち4つを制し、1000ギニーではハンブルデューティーに騎乗して7馬身差の勝利を決めた。また、マイスワローに騎乗してフランスの重要な2歳戦4レースを制した。

 1971年、セントレジャーSにおいてアセンズウッドで先行逃げ切り勝ちを決め、ピゴットは9回目のリーディングタイトルを獲得したが、実際にはその座から退いた。世界中のビッグレースを最優先に考える騎手にとって、英国での勝利数をもとにしたタイトル争いに参加する価値はもはやなかったのである。

 1972年のダービーで、ヴィンセント・オブライエンが手掛けたロベルトにはビル・ウィリアムソンが騎乗する予定だった。しかし馬主のジョン・ガルブレイスがピゴットを指名したことで、オーストラリア人ジョッキーはこの本命馬から降ろされてしまった。

 評判が最悪だったこの決定は正当化されることになる。ピゴットは自らにとって最も有名なものとなった叩き合いの末ラインゴールドを短頭差で下し、レコードタイのダービー6勝目を挙げたのだ。この年、ピゴットはほかにもオブライエン厩舎の馬で数々の勝利を挙げており、セントレジャーSではブーシェを勝利に導いた。

 ピゴットは1973年コロネーションカップでふたたびロベルトとコンビを組んで勝利を挙げた。そのあとベンソン&ヘッジゴールドカップ(現英インターナショナルS)では直前にロベルトが回避し、イヴ・サンマルタンが騎乗する予定だったラインゴールド(バリー・ヒルズ厩舎)の鞍上を務めることになった。騎乗できたはずのモールトンに敗れてラインゴールドが3着となったとき、多くの人が因果応報だと考えた。

 しかしこのコンビは輝かしい栄光の中で幕を閉じることになる。ラインゴールドはピゴットが待ち望んだ凱旋門賞初勝利を実現するとともに、自らも欧州最強馬であることを証明したのだ。

 この年に騎乗したバリードイル(ヴィンセント・オブライエンの調教拠点)の馬には、ダービー2着馬のカーボドーロ(ピゴット自身が生産したサーアイヴァー産駒)、最優秀3歳牡馬で最優秀マイラーのサッチ、優秀な2歳牡馬アパラチなどがいた。

 ピゴットが騎乗した最も偉大な牝馬はダリアである。しかしダリアの主戦騎手になったのは、この馬が積極的にハミを取って優勝した1974年のキングジョージのとき以降だ。テキサス州の石油王、ネルソン・バンカー・ハントのためにモーリス・ジルベールが管理したダリアは、その後ベンソン&ヘッジスゴールドカップやカナディアンインターナショナルも制覇した。

 ダリアは1975年にもベンソン&ヘッジスゴールドカップを制した。またピゴットはジュリエットマーニーで英オークスと愛オークスで優勝し、ロイヤルアスコット開催ではサガロでゴールドカップを制覇するなど8勝を挙げた。サガロは史上初めてゴールドカップ3勝を達成した馬となった。

 1976年のハイライトはエンペリーに騎乗して達成した史上最多のダービー7勝である。この馬もジルベールが管理し、バンカー・ハント氏が所有していた。また最優秀2歳馬ジェイオートービンを通じて引退間近のノエル・マーレスとふたたびコンビを組んだ。

 その後の4年間、ヴァーノンズ・サッカープールズの後継者ロバート・サングスターが率いてヴィンセント・オブライエンと(その義理の息子)ジョン・マグニアが参謀を務めるシンジケートによる成功をピゴットは分かち合うことになった。驚異的な年となった1977年、ザミンストレル、アーテイアス、マリンスキー、ゴッズウォーク、最優秀2歳牡馬のトライマイベスト、そして何をおいてもアレッジドがバリードイルのスターとなったのだ。

 ニジンスキーの近親である小柄で派手な栗毛馬ザミンストレルは、英ダービー、愛ダービー、キングジョージで優勝した。エプソムとアスコットではピゴットの必死の追いに応えて、驚くべき屈強さを発揮した。

 さらに、同厩舎のアレッジドがゆっくりと成熟し、欧州最強馬へと変貌を遂げた。セントレジャーSでは、ピゴットが女王の所有馬ダンファームリンにかわされるのを許したことで唯一の敗北を喫したが、凱旋門賞ではジョッキーがそれを償い、ニュージーランド年度代表馬バルメリーノを抑えて優勝を果たした。

 1978年、アレッジドはふたたび欧州最強馬となった。ウィルスに感染したためシーズンの大半は出走できなかったが、凱旋門賞では直線で早めに先頭に立ちレースを大差がついたままの行列のようなものにして、数少ない凱旋門賞2勝馬の1頭となった。同じ厩舎のソリヌスは最優秀スプリンターに輝いた。

 ピゴットとバリードイルの勢いは1979年にも続き、最強スプリンターのサッチングと最強2歳馬モンテヴェルディを送り出した。またピゴットはヘンリー・セシル厩舎の"二軍選手"ルモスでゴールドカップを制した。

1980年代 引退と刑務所

 ピゴットは新しい10年をムーアスタイル(義理の兄弟であるロバート・アームストロングの管理馬)とのコンビでスタートさせた。この馬は1980年にジュライカップやアベイドロンシャン賞を含む7勝を挙げ、最優秀スプリンターだけでなく欧州最強馬となった。

 1981年、パット・エデリーがピゴットに代わりバリードイルの主戦騎手となり、ピゴットはジョー・マーサーの後を継いでヘンリー・セシル厩舎の主戦騎手となった。セシルは義父のノエル・マーレスが拠点していたウォレンプレイスで調教を行っていたので、ピゴットはこの調教場に帰ってくることになったのである。

 この新しい協力関係は素晴らしいスタートを切った。フェアリーフットステップスが1000ギニーを制し、ムーアスタイルがチャンピオンの座を守った。またピゴットはダーモット・ウェルド厩舎の所属騎手ウォーリー・スウィンバーン・シニアからブルーウィンドの騎乗を奪取しオークス優勝を果たした。

 さらにピゴットはマイケル・スタウト厩舎の所属騎手ウォルター・スウィンバーン・ジュニアが騎乗停止となったことにより、愛ダービーでシャーガーに騎乗した。ピゴットはアガ・カーン殿下のこの偉大なチャンピオンをほとんど追わなかったが、それでも4馬身差の勝利を決めた。

 ゴールドカップ優勝馬アードロスを含むセシル厩舎の数々の優良馬と、ウィリー・カーソンの怪我による戦線離脱で、ピゴットは10年ぶりにリーディングジョッキーに返り咲いた。

 1982年、ピゴットはアードロスに騎乗して自身にとってのゴールドカップ11勝目を達成し、ジェフリーフリアS(ニューベリー)を制して英国平地通算4000勝を果たした。ただ凱旋門賞では頭差で優勝を逃してしまった。

 ピゴットとセシルはダイイシス(Diesis)という最強2歳馬にも恵まれ、ピゴットは11回目にして最後のリーディングタイトルを獲得した。

 1983年、ピゴットはティーノソで9回目にして最後のダービー制覇を成し遂げた。ジェフ・ウラッグが手掛けたこの牡馬は4歳のときにキングジョージで決定的な勝利を収めた。

 1827年以来、英国のクラシック5競走における騎手の最多勝記録はフランク・バックルによる27勝だった。ピゴットは1984年にオークスをサーカスプルームで制してこの記録に並び、ルカ・クマーニ厩舎の所属騎手ダレル・マクハーグから奪取したコマンチランに騎乗してセントレジャーSを制したことでこの記録を更新した。

 1985年にはフリーで騎乗し、ニジンスキー産駒のシャディードで2000ギニーを制し、英国クラシック競走の最多勝記録を29勝に伸ばした。10月になり、50歳の誕生日の7日前にノッティンガム競馬場でフルチョークに騎乗して勝利を挙げて注目を浴びながらピゴットは引退した。

 1986年、ピゴットは自ら所有する平屋建ての家(ニューマーケット・ハミルトンロード)の隣にあるイヴロッジ調教場で調教師としてのキャリアを開始させた。翌年、伊オークスをレディベントレーで制してクラシック優勝を果たし、スタートは順風満帆なものであり続けた。

 ピゴットは少年時代、母親からお金に気をつけることの大切さを叩きこまれていた。しみったれた行為を喜ぶ吝嗇家に成長したピゴットは欲と犯罪の境界線を越えてしまった。

 友人のピーター・オサリヴァンはピゴットの行動の一因は繰り返される減量にあると考え、回顧録の中で「厳しいダイエットが彼を仲間からさらに孤立させ、怒りっぽくさせ、"法をまぬがれる"という銃の名手の妄想を抱かせた」と述べている。

 税務署はピゴットの財政状況を調査し、1986年1月にはニューマーケットの自宅を家宅捜索して多くの書類を持ち去った。内国歳入庁が関与することなり、隠し立てできなくなったときに初めて、ピゴットは隠し口座の存在を認めた。

 1986年12月、10年以上にわたって300万ポンド以上の所得を申告していなかったことでピゴットは逮捕された。1987年10月23日、イプスウィッチ刑事法院での1日きりの裁判において、ピゴットは10件の容疑すべてを認めた。そのほとんどが脱税に関するものだった。そして3年の禁固刑が言い渡された。

 ニューマーケットから10マイル離れたハイポイント刑務所でほとんどの時間を過ごし、1988年10月、ピゴットは刑期の3分の1を終えて釈放された。このような場合の慣例として1975年に授与されていたOBE(大英帝国四等勲士)は剥奪された。

1990年代 ピゴット再臨

 ヴィンセント・オブライエンの提案で、ピゴットは1990年10月にカムバックを果たした。米国ベルモントパークで行われたBCマイルでオブライエンのロイヤルアカデミーに騎乗し、まるで一切離脱していなかったように道中を熱狂的に追って劇的な勝利を収めて時の流れを逆戻りさせた。55歳の誕生日の9日前のことだった。

 1992年、ロバート・サングスター所有のロドリゴデトリアーノで2000ギニーを制し、30回目にして最後の英国クラシック競走優勝を果たした。

 カムバック後、アンナ・ラドローが彼のアシスタントとなった。そして1993年9月に彼女とのあいだに息子ジェイミーが誕生すると、タブロイド紙は大はしゃぎで報道した。

 1994年10月、ヘイドックでパレスゲートジャックに騎乗して英国での最後の勝利を挙げた。59歳の誕生日のノーベンバーH(ドンカスター)が英国での最後のレースとなった。

 1995年初め、ピゴットは海外で騎乗して帰国後にもう二度と騎乗しないことを発表した。通算4,493勝は、英国の最多勝ジョッキーであるサー・ゴードン・リチャーズ(4,870勝)に次ぐ2位の記録だったが、のちにサー・パット・エデリーがこれを上回った。海外での勝利をあわせると、ピゴットは世界中で約5,300勝を挙げたことになる。

 ピゴットはスーパースターレオを共同生産し、この馬は義理の息子ウィリアム・ハガスに調教され最優秀2歳牝馬となった。ハガスは1989年に娘モーリーン・ピゴットと結婚していた。この夫婦はピゴットに2人の孫、メアリー-アンとサムをもたらした。

 スーザンとの結婚生活はアンナ・ラドローとの不倫のあとも続いていた。しかし2012年、76歳のピゴットは家を出て、元調教師のジョン・フィッツジェラルド卿の妻バーバラとスイスで暮らすようになった。

 ピゴットの名が伝説となるにつれ、欠点は忘れ去られた。そして彼は英国競馬界の巨星となった。

By John Randall 

[Racing Post 5月29日「Lester Piggott: child prodigy who blossomed into a riding legend and statesman」]