フィリップ・ミナリクという名前をご存じないかもしれない。あるいはサブウェイダンサーもナガノゴールドでさえも。
しかしこの3名(騎手&重賞馬2頭)は、欧州の中心にある小国の競馬ファンの目には真のヒーローとして映るのだ。小国とは現在"チェキア"とも呼ばれるチェコ共和国のことである。
チェコ出身のミナリクはドイツでリーディングジョッキーに4度輝いた。2020年7月にレース中の落馬事故に遭い、医師から生存率50%と宣告されるほどだったが、1ヵ月におよぶ昏睡状態から目覚めた。ミナリクはそのとき、フランキー・デットーリに"とんでもない奇跡(f***ing miracle)"と言わしめた人物である。
サブウェイダンサーとナガノゴールドはここ数シーズン、パリロンシャンやロイヤルアスコット開催といった欧州最高の競馬の舞台で足跡を残してきたチェコ調教馬である。
しかしある点では、3名はチェコ競馬界では例外と言える。この国の熱狂的な競馬ファンのあいだでは障害競走、とりわけ歴史あるレース、ヴェルカパルドゥビツカが平地競走よりも愛されているからである。
誇り高き伝統
いずれにせよ、チェコ競馬界には誇り高き伝統がある。しかし2世紀以上も遡り国よりも長く存在するその伝統は、資金不足のために危機に瀕している。競馬の熱心な信奉者たちの努力が今日も続いているにもかかわらずだ。
18世紀にチェコ共和国は存在しなかった。ボヘミア地方はオーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、貴族たちは新しい娯楽である競馬を発明した英国を羨望していた。
しかるべくしてフェルディナンド・キンスキーは1760年、数頭の英国産馬をボヘミアに持ち込んだ。その親戚のオクタヴィアン・キンスキーが最初の競馬を始めた人物であることは、何かの定めかもしれない。
19世紀、プラハのチーサジュスカー・ロウカ(皇帝の草地)に最初の競馬場が創設された。そこで伝説のハンガリー産牝馬キンチェムが有名な54戦54勝のキャリアをスタートさせ3度まばゆい走りを見せつけた。グッドウッドカップやドーヴィル大賞などで勝利を収めたチャンピオン牝馬をプラハに迎えるのは誇らしいことだった。
ヴェルカパルドゥビツカの創設
1874年、パルドゥビツェ市近郊で初めてヴェルカパルドゥビツカが開催された(グランドナショナルの模倣と認識されることもあるが、いっそう難易度が高く変化に富むレースだ)。これもまたオクタヴィアン・キンスキーが発起人の1人であり、このクロスカントリー競走を欧州全体に知らしめることに成功した。
その後、アリスティド・バルタッツィがナパイェドラに種馬場を設立し、数十年にわたりこの国の中心的な生産拠点となった。そしてカルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名:カールスバート)とヴェルカーフフレ(プラハ)で新たな競馬場が開場し、チーサジュスカー・ロウカの競馬場は閉場した。
チェコスロバキアは激動の20世紀を迎えた。帝国の解体、第一次世界大戦、ナチス・ドイツの保護下、第二次世界大戦の渦中、そして共産主義政権下での40年間。
そのような苦難にもかかわらず競馬はいかなることも乗り越え、チェコ/チェコスロバキアダービーやヴェルカパルドゥビツカなどのレースは継続している。
この由緒あるクロスカントリー競走、ヴェルカパルドゥビツカは外国からの遠征馬を引きつけ続けていたが、全体主義時代において外国馬とは他の共産主義国からの馬に限られていた。それでもチェコの馬が傲慢なソビエト勢を打ち負かしたときには、一層の歓喜に沸いたのだった。
実際のところ、それがヴェルカパルドゥビツカが人気を集め感情を揺さぶるものである要素の1つであったと言っても過言ではないだろう。この競走はロシアが無敵ではないことをロシア人にくり返し示したのだ。
1989年のビロード革命のあと、チェコジョッキークラブがまもなくチェコ共和国となる国の競馬を統括するようになり、現在では施行規程を監督し運営を管理している。
熱心な競馬コミュニティ
国から直接的に資金を配分される競馬場がレースの運営を担っており、レースのプロモーションも行っている。
しかしそれぞれの競馬場の役員たちは必ずしも競馬振興が必要だと考えないため、必然的に競馬場を訪れるのは、脆弱化するばかりの競馬コミュニティの熱心な人々という状況に陥っている。
それでもチェコジョッキークラブの理事であるラディスラフ・ナギー氏は、この熱心なコミュニティの人々が今後数年間にとても重要な存在になると主張しており、こう語った。
「チェコ競馬界が遭遇している主な問題は資金不足ですが、ほかの欧州諸国も同じような危機に直面しています。しかしチェコ競馬界は熱心な競馬コミュニティのおかげで、これからの悲惨な時代も生き残るチャンスがあると思います」。
「スポンサーのあいだで競馬はそれほど人気がなく、住宅地にするために競馬場の土地を買収することをもくろむ開発業者もいます。賭事産業から競馬界により多くのお金を還元する必要があるのです」。
高いプロ意識
ナギー氏はこう続けた。「しかし、競馬に従事する人々は労苦に見合う賃金をもらっていないにもかかわらず一生懸命働きたいと思っているのです。騎手・調教師・競馬運営者・馬場管理者・記者は高いプロ意識を持っていますが、それは彼らが競馬というスポーツに対する愛情ゆえに仕事をしているからなのです」。
たしかに大勢の観客が訪れることはほとんどない。隣国ドイツに比べて賞金が乏しいことを考えると、外国馬を引きつけるのは至難の業である。チェコダービーとヴェルカパルドゥビツカだけが遜色のない賞金を提供していて、前者にはしばしばスロバキアやドイツからの出走馬もいるが、伝統あるクロスカントリー競走については外国からの遠征馬を引きつけるだけの魅力を失ってしまったようだ。
おそらくこの障害競走の過酷な性質を考えれば当然のことなのかもしれない。コースは恐怖のタクシス壕(Taxisuv prikop)を含む31障害やスタミナを奪う深いダート馬場などで構成されている。これらは毎年10月の第2土曜日に行われるこのレースを目指して調教された地元馬にとっておなじみである。
それでもやはりヴェルカパルドゥビツカはチェコ共和国を代表するレースである。通算8勝を果たし、そのうち4勝を驚異的な名馬ジェレズニク(Železník)で達成したヨゼフ・ヴァーニャ(Josef Váňa)騎手の伝説を生んだレースであることに変わりはない。
一方でここ数年、チェコの熱狂的な競馬ファンのために主役を演じられる平地競走馬が地歩を固めつつある。特にナガノゴールドは英国・フランス・ポーランドで活躍し、障害競走馬を凌駕するような注目を浴びている。
彼は2019年ハードウィックS(G2 ロイヤルアスコット開催)で2着に入ったが、数年前ならおよそ不可能なことと思われただろう。意欲的な平地競走の調教師であるバツラフ・ルカ、イングリッド・ヤナチュコバ⁻コプリコバとその父ズデノ・コプリックのおかげで、骨の折れるようなデコボコ道を辿りながらも、チェコ競馬の威信は高まってきている。ズデノ・コプリック調教師はフランスでG2競走を制したサブウェイダンサーを2018年の英チャンピオンS(G1 アスコット)に送り込み3着に入っている。
それでは、これまで話してきた資金不足以外のもう1つの障害の方はどうだろうか?そう、ナギー氏が言っていたように、開発業者は競馬場のある土地を取得して住居地に変えようとしている。過去に数頭の優れた競走馬が輩出したにもかかわらず、先述したナパイェドラ種馬場などもそうした運命を辿るかもしれないのだ。
国内投資の不足
チェコの馬主は輸入馬に支出することを好むようで、自家生産に投資するようなオーナーブリーダーはごく少数である。さらには所有馬をチェコにとどめておかない場合もある。
たとえば実業家のイジー・トラーヴニーチェク(Jiří Trávníček)氏はフランスに所有するボーフェイ牧場を拠りどころにしている。2022年チェコダービー優勝馬クイーンオブボーフェイもそこで生産した。
チェコ人がどのように競馬の人気と名声に貢献しようとしてきたのかを疑わしく思うのであれば、答えは自ずと見えてくる。それはシャーガーカップをなんとなく基にしたヨーロピアンジョッキーカップ(European Jockey Cup)である。主催者は9月開催のあいだに欧州各国から敏腕ジョッキーを招き、彼らはこのイベントで互いに腕を競う。またシーズン全体の大半の平地競走よりも高額な賞金が期待できる。
スロバキア・ポーランド・オーストリア・ドイツなどからブラックタイプ勝馬ではないものの興味深い馬が集まってくる。ヴァンサン・シュミノー騎手、クリストフ・スミヨン騎手、クリスチャン・デムーロ騎手などの招待騎手もこのイベントを絶賛しており、チェコ競馬についての褒め言葉を広めることに役立っている。
このイベントは全体的に数人の熱狂的な馬主たちによって支えられていた。しかし資金を負担しなければならないこと、さらには中央政府が設けた障害により、2022年のヨーロピアンジョッキーカップは開催を断念せざるをえなかった。
この一文を読むと、チェコ競馬は暗い将来に直面していると結論付けられるかもしれない。しかしラディスラフ・ナギー氏によれば、競馬サポーターに"諦める"という選択肢はない。
ナギー氏はこう語った。「障害競走が平地競走よりも大切にされていることに誰もが満足しているわけではありません。しかし活躍している場所が国内か国外かを問わず多くのグループが障害競走で勝ち取った賞金に依存していることを心に留めておかなければなりません」。
「このようなグループは必要です。競馬に打ち込む人たちを必要としているのです。チェコ共和国において競馬の未来は明るいとは言えませんし、それを否定するのは愚かなことです。それでも、挑戦しなければならないのです」。
By Michaela Moricova
[Thoroughbred Racing Commentary 2023年1月15日「'The future is not bright in the Czech Republic and it would be silly to say otherwise' - special report on a proud racing nation」]