海外競馬情報 2023年05月22日 - No.5 - 4
名手で名伯楽のフレディ・ヘッド、60年の競馬人生を語る(フランス)【その他】

 60年ものあいだ夜明けの冷光が差す前に起きてきたのだから、フレディ・ヘッドは引退後の冬を太陽の光を浴びて過ごすだろうと想像した人もいたのではなかろうか?バハマにある家族の別荘に逃れ暖かくして骨休めするのも魅力的な案だった。

 しかし古い習慣はなかなか消えないものである。75歳のヘッドはこの冬もシャンティイで過ごした。彼はこの地で1960年代半ばに10代のあどけないジョッキーとして検量室に入り、昨年末に25年間の調教師生活に終止符を打った。フランス競馬界のいわば王族の御曹司が老後の楽しみに手を伸ばすにはもうしばらく時間がかかるだろう。

 そのときになってやっと、数々の功績に思いを巡らせるのだろう。中でも最も有名なのは米国で繰り広げた快挙である。2つの職業で頂点を極めたヘッドは2008年、ブリーダーズカップで初めて騎手としても調教師としても勝利を収め、歴史にその名を刻んだ。

 現在でもヘッドは、相変わらず2つの事に没頭している。それは競馬と生産だ。曾祖父のウィリー・ヘッドSr.が150年以上前に英国からフランスに移住して以来、そうするのが自然のことのようになっていた。

 そして今、バトンは5代目、すなわちフレディの息子クリストファーと娘ヴィクトリアへと受け継がれた。彼らはすでに波に乗っている。クリストファーはブルーローズセンでマルセルブサック賞(G1)を制し、G1初勝利を達成した(訳注:ブルーローズセンはその後、仏1000ギニーを快勝した)。

 クリストファーは2018年に調教活動を開始した。その年、叔母のクリケット(フレディの妹)がきらびやかな調教キャリアに終止符を打っていた。ヴィクトリアが始動したのは昨年の夏で、フレディがまもなく引退すると発表した時期と重なった。スムーズな世代交代はヘッド家に共通するテーマである。

とても誇らしい

 ヘッドは子どもたちについてこう語った。「2人ともよく頑張っていて、とても誇りに思います。クリストファーは昨年10月にG1初勝利を挙げ、ヴィクトリアは3月1日に初勝利を挙げました。2人が自らの道を歩み始めているのを見るのは素晴らしいことですね」。

 だからこそヘッドの父性愛が働いたのだろう。控えめな距離から子どもたちを見守り、磨きのかかった目で彼らがどのように馬を鍛えているのかを凝視しているのだ。そのため朝からシャンティイの調教走路によく通っている。それでも、いくらか譲歩しているようだ。

 彼は、「早起する必要も、時計を見続ける必要もないのです。それでも午後にレースを見に行っています。ただし天気がいいときだけですね」と笑った。

 クリストファーとヴィクトリアは一族の名誉を保つために成果を挙げなければならないだろう。フレディはフランスのリーディングジョッキーに6回輝いた。仏クラシック競走28勝、凱旋門賞(G1)4勝に加え、英1000ギニー(G1)を2勝、英2000ギニー(G1)を1勝している。数々のチャンピオンに騎乗し、もっともなことだが、その中でもミエスクのことを"おそらく最強馬"と褒めたたえている。

 フランスのフランソワ・ブータン調教師が手掛けたミエスクは怪物のようなサラブレッドだった。米国の競馬ファンにフレディ・ヘッドを知らしめたのは彼女である。1987年と1988年のBCマイル(G1)をフレディの導きで連覇したのだ。

 ミエスクの1回目のBCマイルでの走りは目を見張るようなものだった。ハリウッドパークの最終コーナーを回る際に狭い隙間を突き破り、直線ではコースレコードを⅗秒も塗り替えるほどの爆発的な末脚を見せた。ゴールした時にヘッドの顔に浮かんだ高揚感は注目に値するものだった。

特別な牝馬

 ヘッドはミエスク(父ヌレイエフ)に思いを馳せながら、声を1オクターブ下げてこう語った。「ミエスクはとても特別な牝馬でした。抜群のスピードがあって、偉大な競走馬でした。フランスで最優秀2歳牝馬となり、3歳と4歳のときには欧州と米国の両方で最優秀牝馬となったのです。乗りにくい馬でしたね。しっかりペースを保つ必要がありました。そうしなければ獣のように激しく引っ張るのです」。

 「だからこそ、彼女は米国のレースで水を得た魚のようでしたね。ペースが速くなることは分かっていたので、序盤で好位置を取りました。もちろん、彼女はとてつもない末脚を発揮してくれました。欧州ではペースが遅くても、彼女が掛からないように抑えなければならないので、後方になりすぎることもありました」。

 ミエスクはG1勝利数を9とし、翌年BCマイルにふたたび臨んだ。このときミエスクは後方で待機しており、ヘッドは揉まれないように外側を走らせていた。最後の直線でヘッドがパートナーを解き放つと、結果は火を見るよりも明らかだった。ミエスクはチャーチルダウンズのびしょ濡れのターフのうえを疾走し、4馬身差の勝利を決めたのだ。「彼女にとってはラクな競馬でしたね。道中一瞬たりとも揉まれることがなかったのですから」とヘッドは振り返る。

 ミエスクはBCマイルを初めて連覇した馬として、その記録を20年以上保持することになった。しかしヘッドがシャンティイの調教師となり、手掛けた威厳あるゴルディコヴァが2010年にBCマイル3連覇を果たしたときにその記録は更新された。最初の2勝はサンタアニタにおいて対照的な騎乗で果たし、3勝目は11頭立ての10番ゲートからの発走で外を回っての勝利だった。それでも最後の直線で5頭を抜き去った末脚はミエスクを彷彿とさせた。

 ヘッドはこう振り返った。「ゴルディコヴァはミエスクと同じく米国のレース展開を得意としていましたね。3つの勝利はどれも特別なものでしたが、1勝目が一番印象に残っています。彼女はあのとき他馬を圧倒しましたね。それ以来、私たちはいつも自信を持って臨みました」。

 脚質はともかく、2頭の牝馬に違いがあったことをヘッドは記憶しており、「ミエスクの方が速くて力強かったですね。それにピークに達するまでに少し時間がかかるゴルディコヴァよりも、スピードがありました」と述べた。

 ゴルディコヴァは2011年にBCマイル4連覇を目指して6歳まで現役を続行した。しかしそれまでに繁殖生活の魅力に屈してしまった。

 「彼女はベストな状態ではなかったのですが、オーナーブリーダーのヴェルテメール兄弟は米国に行くことを望みました。彼女をもう一度走らせたかったのです。終盤に勢いを失いましたが、3着に健闘しました」とヘッドは回顧した。

驚異的な馬

 それでもゴルディコヴァは欧州でオリヴィエ・ペリエ騎手を背にG1・14勝を果たして無事に引退した。ヘッドはこう続けた。「驚異的な馬でしたね。馬体に問題が生じたことは一切なく、管骨瘤すらもなかったですね。6歳まで現役を続けた馬としてはとても珍しいことです」。

 「それにオリヴィエ・ペリエが見事に騎乗したことにも触れておかなければなりませんね。彼の騎乗が勝敗に影響を与えたことは何度もありました。クイーンアンS(G1 ロイヤルアスコット開催)を勝ったとき、彼女は先頭に立って勢いを無くしていましたが、オリヴィエは鞭を一切使わずに追い続けていました。ゴール目前でかなり接戦となっていたのに、彼女に鞭を見せさえもしなかったのです」。2010年のこのレースで、ゴルディコヴァがパコボーイにわずか首差で勝利したことを記録しておこう。

 ゴルディコヴァもミエスクも凱旋門賞には出走しなかったが、ヘッドが騎手として凱旋門賞を4勝したうち3勝は牝馬に騎乗して達成したものだ。それは1972年のサンサン、1976年のイヴァンジカ、1979年のスリートロイカスである。唯一牡馬に騎乗して挙げた勝利は、1966年のボンモによるものである。当時ヘッドは19歳で、ボンモを管理していた祖父ウィリアムは80歳だった。

 ヘッドは、ボンモのことを「おもしろい馬で、重馬場を好むとても丈夫な馬でした。凱旋門賞の日に土砂降りになって、そのことが功を奏しました」と思い出す。それは"家族"で3勝した凱旋門賞のうちの1勝目だった。イヴァンジカはフレディの父アレックが管理し、スリートロイカスは妹のクリケットの厩舎にいた。さらにスリートロイカスはアレックの妻、ギスレーヌの所有馬だった。

 ヘッドは名種牡馬リファールが送り出したこの牝馬についてこう語った。「スリートロイカスも偉大な競走馬でした。凱旋門賞を制した日は輝かしいものでした。全速力で最後の直線に入り、外に持ち出したときにすぐ、この馬が勝つと確信しました。競馬一家として、あれ以上の日はないでしょう」。なおアレックは1歳だったリファールを、ジェルメーヌ・ヴェルテメールのために購買していた。

 ヘッドは1997年に騎手を引退するとすぐに調教師に転身した。だが、成功までにはかなりの時間が掛かり、その苦行は妹クリケットの厩舎の繁栄により余計に辛辣なものになった。フレディが開業1年目の年にクリケットはオールウェイズロイヤルで仏1000ギニーを制し、このレースを4年間で3勝することになった。

 フレディが調教師としてG1初勝利を収めるまで、実に9年もの歳月を要した。それに終止符を打ったのはマルシャンドールだった。2006年モーリスドゲスト賞(G1)を単勝14倍で制して周囲をびっくりさせたのだ。そこで成功への堰は切られた。しかし、なかなか頭角を現すことができなかった自分を一流調教師の地位に押し上げてくれたマルシャンドールへの恩義を、ヘッドはつねに感じていることだろう。

強い心臓

 ヘッドはこう振り返る。「私にとってあの馬はかなり特別な存在でした。脚や蹄にさまざまな問題を抱えていましたが、とても強い心臓を持っていました。すごく頑張り屋で、フランスで初めて同一G1(モーリスドゲスト賞)を3連覇した馬になったのです」。

 「マルシャンドールはアベイドロンシャン賞(G1)とジュライカップ(G1)も制しています。ジュライカップは騎手を引退する直前の1996年にアナバーで勝ったレースですので、とても興奮しましたね。イングランドでビッグレースを勝つといつも嬉しいのです。父方の先祖の出身地であり、先祖の多くがニューマーケットの墓地に埋葬されているのです。マルシャンドールの後どんどん優秀な馬が来るようになりましたね」。

 ヘッドはその後の調教師生活で手掛けた優良馬を次々と思い出していった。その筆頭は2015年にドバイターフ(G1)、イスパーン賞(G1)、クイーンアンS、サセックスS(G1)、クイーンエリザベス2世S(G1)を制してG1連勝街道を突っ走ったソロウである。

 「ソロウは2015年に6戦全勝するというとてつもないシーズンを送ったのです。そしてムーンライトクラウドを忘れてはいけませんね」と彼は語った。

 ムーンライトクラウドを忘れることなどできないだろう。この牝馬もトップクラスの一頭だった。マルシャンドールと同じく2011年からモーリスドゲスト賞の3連覇を果たした。ジャックルマロワ賞とムーランドロンシャン賞での勝利も追加した。しかし2012年のダイヤモンドジュビリーS(G1)で豪州のセンセーショナルなスプリンター、ブラックキャビアとの一騎打ちの末に決勝写真で惜敗が判明すると、ヘッドは取り乱した。

 「あれはとても悲しい日でしたね。ムーンライトクラウドはフランス以外で走って良かった試しがありません。(2013年に)香港に遠征させたときは勝てる自信があったのですが、精彩を欠きましたね」とヘッドは語った。

 ムーンライトクラウドのオーナーブリーダーであるジョージ・ストローブリッジは、長年にわたってヘッド厩舎の主力馬主だった。彼からの支援は今やフレディの娘にも及んでいる。「ヴィクトリアはとても恵まれています。昨年調教師を引退したとき、ジョージから預かっていた馬のうち数頭を彼女に託したのです」。

 その中にはムーンライトクラウドの3歳の娘パートリークラウディ(Partly Cloudy)も含まれており、この牝駒は今季ヴィクトリアのもとで3戦してすべて3着以内に入っている(訳注:現在は4戦してすべて3着以内)。

 ヴィクトリアの顧客帳にはこのような影響力の大きい馬主の名前がある。悪いことではない。アレックが欧州有数の育成牧場に発展させたヘッド家のケネー牧場が昨年末に売却されたからだ。一家の調教活動を支える自家生産馬はもういなくなるが、フレディは自ら生産に取り組むためにわずかな数の繁殖牝馬を残している。当面のあいだ、それらの馬を世話して、子どもたちの調教活動を監督することで、充実した引退生活を送ることができるだろう。

後悔はない

 ヘッドはこう続けた。「人生の大きな転機でした。60年間毎日馬のそばで暮らしてきましたが、何も後悔していません。今とても幸せなのです。ずっとこのままで、退屈しないようにしたいですね」。

 たしかに、思い出に残る数々の冒険においてキャリアのハイライトは事欠かない。ヘッドは数少ない名ジョッキーの1人でありながら、一流調教師としても活躍した。それでは、2つの職業のうちどちらのほうが充実していたのだろうか?

 「それは難しいですね。しかしとても幸運だったということは分かっています。若いときは騎乗することが刺激的で、ジョッキーであるというのは楽しいものです。10歳のときに初めて家族と競馬を見に行ったときから、騎手になりたいといつも夢見ていました。人生のすべてでした。そして長年騎乗しているうちに、調教師になりたいと思うようになりました」。

 「調教活動と騎乗活動はまったく別物です。調教師は騎手とは違い、自分で資金を出さなければならないのです。スタッフ全員のことを気にかけなければならないですし、ストレスがたまりますね。特に勝つことを求める大物馬主がいるときはそうです。それでも、調教することも大好きでした」。

 いつかヘッドは子どもたちに気づかれないように、こっそりと海外への長旅に出かけることだろう。仕事ではたびたび旅行してきたが、見ているものをじっくり堪能することはなかった。今回はゆっくりと充実した時間を過ごすだろう。そして道すがらバラの香りを嗅いで幸せを味わうことだろう。


By Julian Muscat

[Thoroughbred Racing Commentary 2023年4月7日「Miesque and Goldikova, the Breeders' Cup and the Arc - French legend Freddy Head reflects on six decades in racing」]