海外競馬情報 2024年06月20日 - No.6 - 6
ノルマンディー上陸作戦の影響を受けた人馬(フランス)【その他】

 ナチス占領下のフランスへの連合国の上陸作戦から80周年を記念するために、欧米の首脳と元兵士たちがノルマンディーに集まった。英国のほとんどの家庭は1944年6月6日のこの出来事となんらかの関わりがあるだろう。

 あの日に、そしてその後の戦いで犠牲になった人々を悼み、思いをめぐらせる機会である。本紙(レーシングポスト紙)は、この20世紀における決定的な瞬間と競馬を密接に結びつける人馬にまつわる物語を紹介する。

 ライアン・プライス氏は、グランドナショナル優勝馬キルモアとチェルトナムゴールドカップ優勝馬ホワットアミットを手掛けた伝説の調教師であり、作戦決行日にノルマンディーの浜辺に上陸した最も有名なホースマンである。第6コマンド部隊の中尉を務めたプライス氏と部下たちは、5つの浜辺のうち最も東のソードビーチに上陸した。

 BBCラジオのピーター・ブロムリー氏は、1982年に出版した伝記『成功のプライス(The Price Of Success)』の中でプライス氏の上陸用舟艇についてこう記している。「ふたつのタラップが崩れ落ち、最初に舟艇を降りたのはライアンだ。時刻は午前8時40分。ライアンは砂地に足を踏み入れるのではなく、視界からふっと姿を消した。水面が頭上をはるかに超えていて、60ポンドの背嚢を背負った彼はあやうく溺れそうになったのだ。背嚢のクイックリリースを引っ張り、パシャパシャと音を立てながらゆっくりと水面に上がってきた。弾薬・1日分の食料・手榴弾はすべて海底に沈んだ」。

 「飲み込んだ塩水を吐き出そうとしているとき、頭上で大地を揺るがすような爆発が起こった。彼の上陸用舟艇は直撃弾を受けた。窮屈な鋼甲板はねじれあがり、弓なりに曲がり、噴煙を上げた。中にいたライアンの部隊はひどい殺戮に見舞われた。砲弾が直撃したとき、半数の兵士が即死したのだ」。

 「死を免れた兵士たちは足を引きずりながらおもむろに上陸し、ライアンは戦闘グループを編成した。舟艇が炎上したときに、多くの兵士が武器と弾薬を失っていた。彼らは浜辺を歩き回り、最初の突撃で命を落としたイーストヨークシャー連隊の兵士たちの遺体からライフルや小火器弾薬の入った弾帯を集めた。浜辺を急いで立ち去ることが第一だった。ライアンと消耗した部隊は砂丘を越えて突き進んだ」。

 この日が終わるまでに、プライス氏の部隊は川を渡り、ルプラン村を占拠した。多くの死傷者を出しながらも、ノルマンディーの広い範囲で戦い、パリに向けて進撃を続けた。

 ジョン・"ジンクス"・ジェームズ氏は、かつては障害競走のジョッキーであり、現在はブルックサイドスタッドを所有している。キャリアの最初の5年間をプライス氏のもとで過ごした。フィンドン(ウエストサセックス州)にあるプライス厩舎で働いた誰もがそうであるように、彼もまたプライス氏の馬だけでなく人間も育て上げる調教師としての手腕を認めていた。

 ジェームズ氏はこう語った。「よく知らない人たちは、プライス氏を"つむじ曲がりな人間"と思っていました。私たちはよく、『彼が雷を落としたときは、その声はワージングの浜辺にさえも響きわたるものだ』と言っていました」。

 「働きはじめたとき、私は15歳でランカシャーから出たことがありませんでした。丘をのぼって行くと、プライス氏は庭にいました。何しに来たのか聞かれて、ジョッキーになりたいと答えました。彼は後ずさりしてこちらを見つめました。そして『一言いってもいいかな。君をジョッキーにしてやれなくても、一人前の男にしてやるよ』と言ったのです」。

ノルマンディー上陸作戦の証人となった牧場

 コルヴィルにある広大な米国英霊墓地には、「この包囲された海岸、自由への入り口」と刻まれた記念碑がある。ノルマンディーにはフランス最高のサラブレッドが育てられる広大な牧草地がある。いくつかの牧場は6月6日に始まった出来事にかなり直接的で、ときには痛ましい影響を受けた。

 バイデン大統領とマクロン大統領は6月6日(木)、オマハビーチを見渡す米国英霊墓地で追悼式典を行った。そこからほんの5分ほど内陸に入ったところにあるシャンビュール家のエトレアム牧場(Haras d'Etreham)はアーバンシー、キングズベスト、アルマンゾルといったチャンピオンたちを育成した。

 225ヘクタールのエトレアム牧場の敷地内には爆弾穴が残っていてそこは草に覆われている。これは6月9日朝の駆逐艦USSボールドウィンの砲撃によるものだ。その後、第26歩兵部隊によりエトレアムの村は解放された。

 米国軍がノルマンディー西部のカルヴァドス県を内陸に進む一方、英国・カナダ・ポーランドの部隊は、オルヌ県の浜辺から南下し、まずカーン、それからファレーズを突き進んだ。競馬に精通している軍事計画者たちは、エプソム、グッドウッド、トータライズ(勝馬投票)というコードネームの攻撃を開始した。

 アルジャンタンの北側には、パトリック・シェドヴィル氏が現在でも運営しているプティテリエ牧場(Haras du Petit Tellier)がある。この牧場には種牡馬4頭が供用されており、その中には仏ダービー(G1)や愛チャンピオンS(G1)を制したザグレイギャッツビー、欧州最優秀スプリンターのムハラーがいる。

 1944年当時、シェドヴィル氏の祖父アンドレがこの牧場を管理しており、種牡馬プリンスローズが繋養されていた。この種牡馬の子孫にはラウンドテーブル、ミルリーフ、セクレタリアトといった偉大な米国産馬がいる。

 シェドヴィル氏はこう語った。「1944年にノルマンディー全土は大量の爆撃を受けました。とりわけ大きな駅のあるアルジャンタンのような町は集中的にやられましたね。爆撃警報が鳴り、祖父は父ポールにプリンスローズを放牧場から連れ戻しに行かせました」。

 「爆撃が始まる直前でした。プリンスローズはいつもの馬房に入るのを嫌がりました。誰もが避難場所を確保することを必死で、最終的に父がプリンスローズをほかの馬房に入るように促したのです」。

 「爆撃のあと、プリンスローズの胸に爆弾の金属片による傷があるのを発見しました。そしてこの馬は皆の目の前で失血死しました」。

 ノルマンディー上陸作戦のあいだに死んだり姿を消したりした馬には、マルセル・ブサック氏により生産され、凱旋門賞を連覇したコリーダもいる。

 シェドヴィル氏はこう続けた。「とりわけ影響を被った馬主のひとりがマルセル・ブサック氏です。現在ニアルコス家のものになっているフレネー-ル-ビュファール牧場を所有していました。当時ブサック氏はリーディングオーナーでした。そこで占領軍は数頭の種牡馬と優秀な繁殖牝馬をドイツに持ち帰ったのです」。

By Scott Burton & John Randall

[Racing Post 2024年6月6日「D-Day 80th anniversary - the human and equine stories linked to one of the most pivotal moments in 20th century history」]